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INTP

 

 

目次

 

INTPについて

 

ENTPINTPコンビ

INTPとINFPコンビ

ENFJINTPコンビ

INFJ INTPコンビ

INTPENTJコンビ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

INTP

 

INTPは、Myers-Briggs Type IndicatorMBTI)という人格タイプ指標に基づいて分類される16の人格タイプの1つです。INTPは、以下の特徴を持つ人々を指します:

 

内向的 (Introverted): 内向的で、内面の世界に集中し、他人よりも個人的な時間を大切にします。

 

直感的 (Intuitive): 直感的な思考を重視し、論理的な考え方と同時に、新しいアイデアや可能性に興味を持ちます。

 

思考的 (Thinking): 論理的な分析や思考を好み、感情よりも分析的な観点で物事を判断します。

 

知覚的 (Perceiving): 間個的な考え方をし、計画を立てるよりも、柔軟に状況に対応することを好みます。

 

INTPの人々は、クリエイティブで論理的な能力を持ち、新しいアイデアを生み出すことに長けています。しかし、社交的な場面では苦手意識を持つこともあります。熟考を好むため、決断を下すまで時間をかけることも。しかし、その一方で自分の興味を持つ分野では、独自の専門知識を深めることがあります。

 

 

 

 

紫の分析チームの中で最も親密さを必要としないとされるINTPから話を始めましょう。この必要性の欠如は(彼らが親密さを楽しめないという意味ではなく、むしろ彼らは)自分自身の親密さを得るのが難しいという意味だ。
親密さを楽しめないという意味ではなく、むしろ彼らは自分自身のエネルギー源となるエネルギー源を得るのが難しいのだ。彼らが親密さを築こうとする動機の根拠は、私が他の異性に対して同じような肉体的衝動を感じたり、他の異性に喜びを感じたりすることではないことに気づいてほしい。むしろ、相手が私を根拠づけるからである。利用することも自由にすることも、研究することも、燃やすこともできる。
アンノウン・サンシティ・スウィートハート
つまり、INTPの一般的な状態はパンセクシュアルである。

 

それでは、INTPの特徴を8つの次元から分析してみましょう。
INTP
Tiメイン㟢で、オクターブ・オーダーはTiNeSiFeTe
|人、物、出来事に対する探究心が非常に強い|
低資性は自分自身を炭素ベースの生物とさえ見なしているため、以下のようなことがよくある。

INTPの人たちは、13回の食事をきちんと摂ることさえ実行するのが難しいのだから、口や胃の後にやってくる他の欲望をどうやって探求すればいいのだろう?下層ドミナントは外見の背後にあるパターンを探し、Neの助けを借りて、価値を得る可能性について考える。

Siは過去の経験を使って可能性を検出する(Seではなく、Siによるもので、起こったことであり、他の人にも起こったことであり、データの確率のほとんどに起こったことだ)。共感というより、この動作法則の背後にある、周囲の人々の感情的態度による八百長の法則の重要性と適用可能性だ。だから、テ指向の人はこれだけのハズレを研究して、実際に何が生まれるのか、何が得られるのか、産業連鎖の関係はどこにあるのか、ということを問わねばならない。

ITPはこう言うだろう。この法律は今、何の役にも立たない、出力できるのか、将来何ができるのか、重要なのか?
この法則を解明することが彼らのエネルギー源なのだから、紫グループの中で最もPの高い人はINTPENTJINTJ2大自己顕示欲の強い人に決まっている。ロールに関しては、ENTPもまたそうであることは言うまでもない。
Se+Te
は、自分の興味のあるものに出会うと爆発する。INTPだけは、自分が燃えるポイントを見つけるのに本当に苦労するでしょう。

 

それは同じことで、興味を失えば新しいものを手に入れる。Si脆弱性はまた、そのような関係が実際に与える影響に非常に鈍感にさせる。彼らの親密な関係は、ENTP経験世界の遊び相手に奉仕する。TNTPiの優位性が低いため、世界を実験室とし て、法則の探究者として行動することができる。このことから、彼らはNeを使ってTiを使って法則を探求したい物事や人をスキャンし、Siを使って現実世界や過去の経験とのつながりを得、Feを使ってこの枠組みの参加者に起こりうる感情反応の正確さを判断して法則を探求する。また、Feは完全には経験主義や観察主義であり、非常に硬直的な印象を与え、システム全体の崩壊につながる。彼らの親密さは、リードされ、Seのような経験の現実で彼らのFiを本当にこすり、彼らを一から考えさせるために誰かを必要とすることに反映されています。
INTP
のこの子どもは、既知の経験を利用し、それを他の人に要約する人の一人である。

狙ったパターンを見つけ、そのパターンを人に使うとどうなるかを、意味のない部分を排除して判断し、他人の感情を代入する経験。そのパターンを物に当てはめればうまくいき、人に当てはめればシミュレーターのミスマッチの対象になってしまう。だから、親密な関係では一般的にINTPがリードされる。

 

 

ENTPINTP

~死体のような静けさと狂ったウサギのような動きの組み合わせ~
ENTP
型とINTP型は、一目でわかるタイプには属さない。
特に特にINTPは、世界に言及し返される
マシンガンのように話すことができ、プッシャーのように行動できる人間がこの世に存在するという事実に、私はコンピューターのスイッチを切りたくなる。しかし同時に、ENTPは口喧嘩には口喧嘩をするが、論理は自己一貫できる。ポイントは、自己言及的で、対象は他人ではないということです。INTPのような人は、自分自身が自分の構築した法則にも役立つ法則を探求するのだが、その法則自体も他者に奉仕しているわけではないので、この人はまったく安定していないが、迷惑でもないという驚きがある。ひとつ難点があるとすれば、このふたりにはどちらもテがないことだ。
これを最初に提示するのはたいていENTPで、INTPは相手の注意を発見するためにiで引き戻そうとしたりする。

 

 

ENTPは、この種のデータベースとしては実に豊富である。
16
のパーソナリティに対する個人。
また、ENTPFe3番目の位置にあり、INTPFe4番目の位置にあるため、本質的にこの2つは同じ論理を持っている。FeFiを使ってお互いに戦っている。
彼らは、ケンカのアイデアに複数の可能性を提供するために、Neの少ないFeを使っていて、もう1人は、ケンカという問題に対してどちらがより論理的な解決策になりうるかを探るために、Tiの擬人化されたFeを使っている。~?というのはどうなんだろう?)
つまり、基本的にこの2人の研究モデルは、1つの特殊な視点と1つのランダムな視点である。

多角的なランダム分散。
INTP
はもはや複数の実験体を見つけるのに苦労する必要はない。
ENTP
INTPから結果を得ることができる。もちろん、この結果は純粋にスピリチュアルな産物であって、テが使えるような物質的な産物ではないが、このスピリチュアルな産物は、この風変わりなカップルのペアを満足させるには十分である。

INTPの自由は、世界の外にあり、お金、名声、キャリア、成功の世俗的な追求を扱うことは熱狂的ではありません。INTPの追求は可能性と変数の自由を探求することであり、論理的な精神世界の独自の構築に焦点を当てるのと同様に、自己の要因の影響を除去するための絶対的な自由だけでなく、多次元で旅行するための完全な自由であるフィルムに似ている。

しかし、このような役割で自由に旅をするとき、彼らはいわゆる欲望を経験したくない、あるいは欲望は自己から来るのではなく、自己を解体したいという興味から来る。

自己からではなく、むしろ興味のある人々や物事から来るもので、それを解体してパターンを見つけたいのです。そのためINTPも道徳的な人とは考えられておらず、これは新しさ・白昼夢というよりも、人間自身が求める絶対的な定義のいくつかは、その生まれ持った性質に反していると考えているのです。

ENTPは自己の絶対的自由であり、私は世界であり、世界が私に奉仕することを望むが、彼らが求めるのは世界のつながりや資源、製品ではない。むしろ、ある欲求を満たす必要があるときに、世界は彼のために道を作らなければならない。つまり、ENTPは世間から外れているというよりも、自分の欲望のどの部分を今実際に満たしたいのかということなのだ。
そして、今自分が身を投じたいのはどの方向なのか。

ENTP型は、もし自由に旅ができるなら世の中の問題に対するさまざまな見方を学んだり、さまざまな人と恋に落ちたり、さまざまなトピックに対して彼らの心がどこに向かうのかを体験したりすることで、人や物事の魅力的な部分をもっと探求するかもしれない。あらゆる面で批判的である代わりに、経験主義には興味がなく、既知の出来事にも興味がない。未知のものこそ、彼らのパンドラの箱であり、ENTPのジレンマはしばしば自ら招いたものである。そして、エゴ的思考の絶対的自由を追求するあまり、こうしたジレンマを打破しようとすると、ENTPは簡単に追い詰められてしまいます。ある意味、ENTP16のパーソナリティの中で最も角を矯めて牛を捕まえる可能性が高いかもしれません。しかし私はそれを望んでいない。
このようなアップテンポな機能があると、ENTPの自由は囚われの牢獄となる。一方は好奇心と探求に絶対的な忠誠を誓い、もう一方は万物の自己経験という探索変数に絶対的な忠誠を誓っているため、自由を追求する上で互いの方向性と手綱となることができるに違いない。

 

INTP×ENTPに書く。
この世には代償があり、あなたはかけがえのない存在だ。私はこの世の脈動を忌み嫌う。彼らは意のままに私の肉体に植え付け、私に彼らとの共存を強いる。このつながりを断ち切りたいので、あなたに凶器を渡す。必要ならば、私を永遠に自由にしてほしい。

 

 

|INTPとINFP|

 

このグループは、組み合わせを見ると1文字しか違わないが、実際には両極端と表現してもそれほど差はない。なぜ彼らがギャラクシー・グループと呼ばれるのか考えていたのですが、私の考えでは、それは彼らが皆、純粋中の純粋だからです。なぜINTPは小さな子供だとよく言われるのかと聞かれたことがありますが、それは、小さな子供こそ、次のようなことができる人間だからです。

INTPINFPはそのような子供に思える。INTPINFPを論理と法則、宇宙と哲学を探求するように導き、INFPINTPをこれらの分野で最善の道を見つけるように導き、INFPINFPをこれらの分野で最善の道を見つけるように導く。
INTP
は、存在、死、恐怖、真実といったこれらの分野において、自意識の価値を見出す。これは、NeNeの共鳴であり、Fの補完であるかもしれない。
F
の補語。おそらく天の川は足元から出てくる星であり、あなたと話すたびに星が瞬き、宇宙が共振するからだ。

この二人の性格の可能性について。
1.
どちらも理想主義者
一方は情報収集と世界の法則の探求という無限の可能性に満ちた第三の視点を持つ理想主義者。
一方は情報収集と無限の可能性の探求に満ちた第三の視点を持つ理想主義者であり、もう一方は自分の感覚を容器として世界や他者からのフィードバックを運ぶ理想主義者である。同様に理想主義的な殻の下で欠けている知覚の部分を埋めることができる。INTPINFPを高い自意識から引き離すことができ、内的葛藤や必死に駆け巡る頭蓋の思考や自己否定を減らすことができる。代わりに、自分自身が調べたい何かや議論を相手に体験させる。INFPINTPが探し求めている真実を検証するために「自分」の役割を使うように、徐々にINTPを形成していくことができる。


INFP
は、INTPの認知の範囲内で、一般的に公式の最適解となる誰かを常に代用するのではなく、INTPが探し求めている真実を検証するために「自己」の役割を使うように、INTPを徐々に形成していくことができる。例えば、意識とつながっている監督や本の著者は、彼らの認識から世界を認識しようとするが、INFPはその問題に対する最適解ではない。世界を知覚しようとするが、INFPは彼らに実体を与える。STJが社会のルールにしっかりと足を踏み入れ、自分自身に糧を引き出させる人だとすれば、この2人は必死に抜け出そうとする人であり、そこには何か悲しい運命論が感じられる。

 

MBTIには、Jの人は計画を立てるのが得意で、Pの人は戦うのが好きだという固定観念がある。
この人は戦いを挑むのが好きだ。実際、J型はより決断力があり、そのためより早く結果を出すように見えるが、P型は計画を立てるのが下手なのではなく、感覚的な情報にさらされやすく、自分のものを構築するときに気が散りやすいと言った方がいい。より多くの情報があり、気が散りやすく、その結果、最初に着手した方向性を疑いやすくなる。しかし、通常はプレッシャー感があるため、素早く結果を出すことができる。そのため、Pの人は通常、DDL1時間前に、これまでになかったような闘いを繰り広げる。自助努力(他に何がある、ただ死ぬだけ)そして、時間が差し迫っているとき、彼らがいかに早く情報を処理するかという第六感。
そして、1000回そうしようとするたびに、まだ死なないとなると、力のパラダイムになることさえある。だから、Pの人たちがどんどんPになっていく。

このペアの場合、内的葛藤を抱えやすいのはINFPの方で、相手のために何かを変えたり、特定の分野で相手と付き合うことで知識を吸収したりする行動をとることが多い。しかし、これは実は骨の折れるプロセスである。というのも、通常このような行動をとるINFPは、自分がコントロールしているように振る舞うことも好むため、テーブルの向こう側にいる人、特にINTPにとっては、自分がどれほど苦労しているかを感じることが非常に難しくなる。
INFP
は自分自身と関わりながら苦労している。

INFPは相手を精神的な支えとして利用し、相手の方向へ向かって舞い上がり、相手を吸収する。相手を吸収し、相手の方向に向かって成長する。しかし、この過程でフィードバックを得られなかった場合、相手は自然に受け入れる姿勢を示すだろう。INTPの理性は常に優位に立ち、感覚に打ち負かされることはない。一方、INFPはどんなに理性的な頭を模倣しても、常に自意識に支配された感情的な頭である。

無自覚。もし相手が理性を使ってもう一度触りたい手のところに戻ろうとすれば、海に戻ることを選ぶ。たとえ最初は、あなたと踊るために喉と足を交換し、ナイフの切っ先を踏む覚悟ができていたとしても。
INTP
の温かさは、実は知識を求める彼らの燃えるような欲求から来るものであり、INFPは共感する相手への燃えるような情熱から来るものである。

一方は情報をポケットに
一方は我蛾の炎に自分自身を燃やしている。温度そのものが違うのだ。結果という点では、INTPが溶かされてしまうのは必然だが。


INFP×INTP
適応マニュアル:銀河は沈む 私は痛みでキスをする

溶けた後の姿は、INFPが望むものとは違うかもしれない。
例えばINTPを手なずけようとして、その機械的な心を血肉に満ちた心に家畜化しようとすれば、その過程はとても悲惨なものになるに違いない。より残酷な真実のひとつは、INTPは通常、短い交際期間中に愛とは何かを理解することができず、その代わりに、別れた後にこの結果から来る逆の考えを集めるようになるということだ。また、相手が恋に落ちる過程で多くの絶望を積み上げてきたことも知覚できず、彼らの意見では、それはプログラム通りに動いているのではないだろうか?しかし相手はすでに、別れるほうが苦しいのか、それとも続けるほうが苦しいのかを考えている。

イニシエーションの草の根的な必要性:星は光を失い、ただ重みのある無名になる


INFP
は自分自身が作り出した苦境に陥っている。彼らは自作自演の苦境に陥っている。
自意識を強烈に追求するため、愛や痛みを真に感じたいという欲求が強く、それが何倍にも拡大される。そのため、自ら虐待的な関係を作ったり、強烈な個性を持つ人物に支配される状況に陥ったりする。この強い個性がポジティブな個性であれば、INFPにリーダーシップの感覚を与え、ポジティブな感情を経験させてくれるだろう。しかし、もしこの強い個性が否定的な個性であれば、INFPをズタズタにし、次のようなことに巻き込まれるでしょう。

 

否定の狂気。
同時に、同族には反発を覚える。
NF
の人たちとは自然に仲良くなるが、INFPの人たちはNFの人たちにとても惹かれやすい。NTの人は彼らに惹かれ、間違いなくパープルピープルグループのスタンダードとなる。ネット上ではあまり見かけないパープルピープルの皆さんは、きっと小さな蝶々を持っているに違いない。だから、あなたは彼らをカオスと呼ぶが、彼らの本質は求める分岐した欲望。ただ、INFPにとって、現実の意味から自分の存在を見出すのは難しいことなんだ。
イズムから自分自身の存在を見出すのは難しいので、完全に理性の中に身を投じることは避けたいと願っている。空想の国の空虚さに身を投じることは避けたいのだ。
INTP
は現実世界と精神世界をつなぐ理想的な柱にはなりえない。なぜなら、彼ら自身の行動様式は猜疑心であり、知識を求め、議論し、結論を導き出し、より多くの枝分かれした問題を見つけようとする絶え間ない猜疑心のためである。これらはどういうわけか、両者を完全にニヒリズムへと引きずり込む。

もし二人がより理想主義的な構成にあるとすれば、必然的にどちらかが世に押し出される責任を負わなければならなくなり、それはどちらか一方にとって残酷で苦痛であり、また受け手であるもう一方にとっては非常に罪悪感にさいなまれることになる。そしてその結果、精神世界はともに枯れ果て、かつては輝きを放っていた星の川は光を失い、曖昧で重い石に変わってしまう。
曖昧で重い石となり、両者の重荷となるのだ。

INFP×INTP
適応マニュアル:銀河は沈む

 

このペアはどちらの精神も子どもだ。
INTP
はどちらかというと、神に選ばれた才能ある子供のようなもので、人生を通じて協力し合う母親のような役割を必要とする。ですから、イニシエーションはINTPの人生であり、INTPの人生への復帰なのです。伴侶の役割はどちらかというと与える側にある。
INFP
は、彼の個人主義を抑圧することなく、彼を導き、形を変え、彼のこの立ち姿を完成させる柱を必要としている。宇宙という単位では、彼らは互いに惹かれ合う運命にあり、社会という単位では、フォークは互いに傷つけ合う運命にある。

彼らはむしろ、互いの人生に現れ、最も重い教訓を教え合い、そして使命を全うする対象なのだ。

INFP×INTP
に書く。
地球は私の肉体の乗り物に過ぎない。
あなたは私の巨大な精神と共に咲く。
宇宙がきらめくように、君の瞳に宿る光と欲望。
半分は僕で、半分は僕じゃない。
私は、あなたが私の震えに完全に吸収されるように、あなたの楽器の細胞になりたい。来てくれて、そしてローバーにさせてくれてありがとう。
私たちは塵にすぎませんが、天の川を身にまとっています。

 

 

 

ENFJINTP

自分自身に対する疑念や見直しもあるが、丁の機能が弱いため、本質的な不安を抱え、自分の答えを確認する際に常に自分の思考や論理を疑い、同時に論理に関する情報が不足しているため、感情的な思考に頼りすぎてしまい、誰かから否定的な言葉を投げかけられると、なぜあんなことをしたのだろう、本当に正しいことをしているのだろうか、あの人は本当に必要としているのだろうか、なぜ私を拒絶するのだろう、私は共感できていないのだろうか、などと考えてしまう。共感していないのか?という疑問符に囚われる。

そして、FiENFを助ける機能ではなく、彼らの8つの次元においてFi
iENF
は、自分の道徳と関数の自己の評価、私は彼を尊重する人々の感情や価値観を尊重し、誰も傷つけず、他人の利益を優先し、自分が善人だからこのようなことをするのか、自分が善人であることを認識し、自分が善人であることを確認するためにこのようなことをしたので、周りの人々にそうさせたいと願っています。これらはすべて、ENFが彼らの背後にいる誰かに答えてもらう必要があることであり、Fの人々が直接与えるのは難しいことだ。
彼らが何を必要としているかは、本当にiが補ってくれることでもある。
ここでINTP、つまりENFJが慣れ親しんだ思考パターンでつまずく感情的な罠をすべて避けながらTiを補完し、優れた情報と論理的なプロセッサーを提供できる人に行き着く人である。

ENFJINTPと相性がいい。
INTP
が最もアレルギーを起こすのは、ENFJ2つの宝物、FeSeである。
Fe
Se、これは彼らの絆の中で最も辛いものである。
Se
SiTiFeの相互創造によるコミュニケーション問題。

ENFJ
は感情的な性格で、何度も強調しているが、彼らがグループをリードするのは感情を和らげる

1つは、ドーパミンを得るために、あなたが感じる取るために行動に変換されたSeを介してであり、もう一つは独自のSeのアクセスを介してであり、お店の食品を訪問し、些細な日常的な入力は、相手が交流の充実によってもたらさ交換を感じるようにするために、実際には、ほとんどの人にとって有用である。しかし、INTPはそれ自体から意味を見出すのが難しい。
つまり、この情報潰しによって、「私の情報基盤はあまりにも下らない」と判断し、相手は相手はまったく興味がないかもしれないし、何度か試みた後で、INTPが頼っていた合理的追求理論がENFJが冷血で、過度に論理的で非人間的であると判断する。この時点でINTPははFeに乱暴に殴られたか誘拐されたと感じるだろう。しかし同時に、ENFは傷つくだろう。
冷や水を浴びせるのか?しかし、INTPが理論的な知識をあなたに輸出して共感を得ようとしている可能性もある。
あなたの心に響くデータから熱を得るための知識。
単刀直入に言えば、INTPENFを温厚な人だと判断する。

熱意と利他主義、自己達成の仮面以外は空っぽの人物を解剖するのは興味深い。ENFJはまた、INTPは社会的なモードを使ってのみ動作するロボットであり、非人間的な存在から人間的な存在になるための持続的な熱意の発露には値しないと判断する。非人間的なものから人間的なものへと変化させる。

2.
そして価値観の逆質問
ENF
は信仰と確信が必要な存在で、設定内に入れればENFは多くの信者を必要とし、信者の崇拝、賛美、満足からエネルギーを得る神だが、INTPはたまたま信仰もスタンスもない存在。神はそのような人に出会ったら、本当は征服したいという願望を持つだろう。しかし、彼らの対処様式のせいで、彼らが征服しているときに、この征服された人を無視することができる。
現実のニーズとカーネル、自分の信念で愛を補強し、相手がそれを受け入れるはずだと思い込み、受け入れなければ重みを増す。
一方、INTPの確信と信念はすでに集中力の限界かもしれない。しかし、ENFの場合、80点程度のそのフィードバックと集中力に慣れていても、たとえ相手がすべてを出し切ったとしても、フィーリングが50点以下だと、結局、ナチュラル・パーティクルになる。
結局は、やはり生まれ持った粒子や特性が、創造物の価値を引き起こすということだ。人は神の愛を持って生まれ、感情的な本能を使って愛と秩序を構成する。Tの中には、偽物を感じ、ヴァイするために、自分自身にハテナを与える者もいるだろう。

 

 

 

INTPINTJ

INTJのプロセッサは、自己改善、自己設定プログラム、および自己から来ている。
INTP
プロセッサーは情報を扱うことから来ている。この情報は私の情報ではなく、私が見ているもの、私が知っているもの、私が最終的に知ることになるもの、可能性のあるもの、単一の結果ではないものについての情報である。つまり、彼らのプロセッサーはどちらかというと記憶装置のようなもので、何かを入力すると、必要なフィードバックが返ってくる可能性があります。しかし、INTJプロセッサーは、あなたのニーズを無駄な情報やウイルスと判断し、そのままあなたを判断してしまう可能性があるのです。
無駄な情報やウイルスと判断し、ただフォーマットしたり、フィードバックするためにもっと必要だと思うものを私の視点からフィードバックとして処理したりする。
なんというか、恋するヒューマノイドコンピューターみたいな感じ(ブシ)
マクロな視点で見ると、INTPは使われるべき性格であり、つまりその機能性は開発されるのを待っている。しかし、INTPINTJにとって、直接的な判断の内側にある脅威ではなく、共生や協力ができる性格です。ひとつは
NTがコミュニケーションの波にアクセスしやすいことであり、2つ目はINTPが情報の貯蔵庫として機能することである。そして感情的なワナでパニックに陥らせないことである。

この景色は、私がこれまで聴いたことのない全く新しいバージョンだ!
聴くこと。つまり、彼らは一般的に表現者ではなく、観察者であり、他人と一緒に積極的に表現するよりも、自分の興味のある分野の知識を吸収することによって、自分自身の論理的枠組みを構築する傾向が強い。

 

INTPは物事の概念や論理を探求し、その見方が外界と共有されているかどうかよりも、自分自身の認識が自己矛盾していないか、確立されているか、合理的かどうかに注意を払う。そのため、人を研究することも好まない。彼らに言わせれば、他の15人の性格はおろか、彼ら自身も複雑なのだ。彼らは一般的に、自分を研究したがる人に惹かれる。

(INTP
に生まれ変わったら、みんな私を使いたがっている?)
つまり、INTPの怠け癖は、脳の硬化の度合いというよりも、その多くは、一見処理が遅いように見えることなのだ。というのも、素早い判断を下したり、言葉による行動で他人の考えや行動を変えたりすることは、INTPが最も苦手とすることだからだ!

ENTJはたまたまINTPと正反対の性格であるため、ENTJは問題の定義を理解することで、ゆっくりと徐々に問題を解決し、他人に影響を与える傾向がある。しかしNeの場合、この思考は客観的な事実に基づいているわけではない。客観的な事実は自分の意見を主張するための道具にすぎない。
INTP
は、ある結果に到達するために手っ取り早く計算するよりも、答えが多次元的に正当化されるまで段階的に計算を進める方が楽しいと感じる。

INTPの特徴の1つでISTPの比較図と一致しているのは、彼の信念は考慮されないということである。彼は他人の承認には関心がないと考えている。ゴールについて考え、抽象的な論理を探し、理論を構築し、この理論の枝を広げてより多くの見解を生み出すことは、すべて排他性によって生み出されるもので、これはINTPの最も燃える機能のようなものです。だからこそ、彼らは無限のアイデアと可能性を持っているのだが、簡単には他人と衝突しない。ISTPは道具箱を開けて、あなたを打ち負かす道具を選ぶので、彼らに干渉してはいけない。同時に、彼らは自分の対人関係処理が劣っていることを自分自身にはっきりと指示し、一般的に言えば、INTPはここでE人が自分を主張するのを待ち、主張した後はE人のFeを模倣するプロセスを経て、自分の友人や親密な関係に感情的価値を与える。
それはちょっとかわいい。しかし、それは特別な機能ではないので、E の人が INTP に打ち明けに行けば、多角的な視点からの
(
ネ)この視点の違いについて論理的思考が分析され、さらにはあなた
の視点を完成させ、多角的な8Dビューを提供する。

ここでサイドクエストが登場する![システム警告:あなたを養子にした人物はEではなく、INTです。YES/NOを確認してください]
この採用者の基本情報を見てみよう。 キーワード:自己啓発、集中力、戦略的思考の使い手、即興性が高い!
100
の変数を考える、完璧主義者、PlanBにこだわる、マスターマインド功利主義的性格、誰かが犯罪を犯しても私は犯罪を犯さない、108の死に方を書く、人間モデリングの達人、高い自我の使用。
INT
は、他人を利用するENTXラインとは根本的に異なり、彼らは一般的に、あなたの価値を肯定するだけでなく、自分のニーズを容易に明らかにしない。

そして、君は僕の仲間だと言ってくれ。
それができないということは、私を愛していないということだ。

それから、基本的に関係は下り坂になる。

 


例:最初の頃、INTXは多くの社交性を築くのが好きなタイプではないとはっきり言った。その後、あなたは自分の友だちにこんなことをした、悪いことばかり言っている、自分の友だちを自分のものとして扱えない、と相手を責め始める。


2INTXが、一人の時間がとても必要だと言ったので、あなたはもちろん、誰もが独立した個人であり、空間から独立して考えることも必要だと言った。しかし、一緒にいた後、あなたは憤慨し、互いの一人の時間を圧迫攻撃し始め、その理由は、私は男/ガールフレンドえっ、なぜあなたは私と一緒に時間を費やすことはありません、それらの事は私が重要な幸せを持っている研究?もう私に興味がないのですか?あなたはもう私を愛していないに違いない。


このような修辞的な質問でINTXから肯定的なフィードバックを得ようとすると、ほとんどの場合、ゲーム失敗の決済画面が直接表示されます:
[
ミッションに失敗し、2回目の挑戦も失敗しました。]

5,親密さの定義:INTPINTJにとって、親密さとは単に感情的な価値を提供することではない。単に感情的な価値を提供することではなく、むしろ感情的な価値はこの2人が最初に重視する価値の中にはなく、むしろ2人の関係の定義の優先レベルは、親友、次に戦友、そして時には敵対することもあり、最後に仲間である。
6.
実利とバーチャルの効果的な組み合わせ:ここでもまた、より定型的なもので、古典的なけんかコースのカップルは贈り物をする。通常、喧嘩の原因は相手のその心臓が放つ血液にはぼくだけの怒りがあった。

結局のところ、カップルの幸せを願うと同時に、次のような問題が起こらないようにすることだ。
起こるであろう問題を回避することである:
ケンカや忖度の可能性も予想されるが、極端な論理状態に陥ると、炒め物になりかねない。極端な論理状態に陥ると、2台の機械が互いにコードを打ち込み、忖度し合うように、空恐ろしくなる可能性がある。2台のマシンが互いにコードを打ち込み、相手を先にハッキングするような、空恐ろしい事態に陥るかもしれない。また、社会的関係から切り離され過ぎると、関係性の中で互いの必要性を認知的に判断する両者の必要性が徐々に弱まっていく。


理想主義者と実践主義者、双方がお互いを理解するプロセスの前段で、まずネガティブな状態を見る、あるいはアウトプットの必要性の中で、これらの重要なポイントについて考え、自分の最も嫌なものの中に相手を見る。INTJは、INTPは何もすることはできない混沌としたアイデアに加えて、サービスの出力もない、INTJは、単にまた、人の自分の思考とロジックを提供することができないと思います。この2人が一緒にいる前提は、お互いの否定を受け入れることができなければならないということです。
お互いのネガティブな性格を受け入れられ、経済状況も良ければ、うまくやっていけるでしょう。
いいですね。

INTPの人は、アイデアをくれる人が自分をコントロールしようとしていると常に思ってはいけないし、自分のスペックを利用して、同じタイプの仲間を大量に要求してはいけない。

INTJxINTPへ。
あなたは私の絶対的合理性の抜け穴であり、私にとって向精神薬の幻覚剤である。
あなたが私を見つけるのを待っている。
私をマークし、捕らえ、利用する。
そして最後に私を完全に所有し、私をあなたのものにし、あなたに仕える。

 

 

 

 

 

INFJ INTP

宇宙ゴミは文字通り、宇宙を汚染し、他の人類の探査活動を妨害する存在である。彼らは膨大な運動エネルギーを持ちながら1周の速度で活動し、衝突するとまだ機能しているシステムに深刻なダメージを与える。しかし、彼らは自分たちではこのことに気づいていない。だからこそ、私はこのように書いたのだ。
そう、INFINTPの両者には、実に多くの人間関係の欠点がある。
16
ペルソナブラックサイド、相対的な人間関係経験が最も乏しいのは、やはり確かにintpの言う通り、初期段階ではEP型の性格に惹かれやすい。相手のパワーを蓄えるモードと機能で、束の間利用される快感を味わえるが、同時にお返しがしにくく、お返しするモード自体に抵抗があるため、EPは利用した後は相手を谷間にしか感じず、怒鳴っても響くだけで、実際のフィードバックがないため、すぐに次に進んでしまう。

 

INTPはその過程で見直し、学べば多少なりとも伴侶のようになれるし、見直しに失敗したり、自分の気持ちが面倒だと感じれば、関係を断ち切るだけである。INFに関しては、高い適応性の仮面をかぶった自己ニーダーである。
自己欲求が無に帰すと、相手に無力感を与え、つまり、自分のしていることが無駄であることが明白になり、あなたを愛そうとはしなくなる。
あなたを愛したいのではなく、自分自身を愛したくないのだ。

この2人を単刀直入に言うと、INFは、探求されたがっている宇宙であり、彼らの複雑さであり、人間性であり、神性であり、さらには宇宙の一部であり、世界の一部であろうとするINFの力なのだ。

ダークサイドにとっては、偽りの輝きを放つ惑星のようなもので、INTPが逃れることのできないブラックホールである。彼らは冷たい武器の上の光、深海の盲目の魚のランプ、煮え切らない光と闇のようなものだ。そして、通常の人間の知覚の一部が欠落している宇宙の浮遊物のように、互いに人生の存在のわずかな意味を見出そうとしている。限界に達した人間同士が、お互いを攻撃し合うことで、私はまだ生きている、私たちはまだ一緒に生きていける、と引き換えに温まろうとしているようなものだ!センス派。

 

INTPは、INFJのダークサイドや攻撃性を引き出すことができる性格だと言えます。
同時にINFJは、この状態で受動的に感情体験をエスカレートさせながら、INTPにあらゆる感情を徐々に吸収させることができる性格でもある。


このペアの引き寄せの原理から説明しましょう。
INFJ
から見ると、INTPは主観的な前提に当てはまる。魂はあまりにも多くの不純物がなくきれいです(もちろん、プロセッサの人の欠如を伴う)。
山や湖の心には四苦八苦している。
また、INTPの基本属性のせいで、基本的にINFのメカニックでは初期スコアがかなり高い。そのため、INFのコピーを全員でプレイした場合、INTPは専用武器を手に入れたと言える。
このゴールデンフィンガーは、INFINFPがコミュニケーション能力があり、そのコミュニケーションが意味のある深いコミュニケーションであり、聞き上手であることを認識していることを意味する。彼らは話を聞いてから、自分の処理メカニズムを通して質問したり提案したりすることはない(実際に質問したり提案したりすることはINFJには嫌われる)。

 

INFJは何をすべきか、どうすればもっとうまくやれるか、どうすればもっとうまく考えられるか、どうすればプロデュースできるか、より良くする方法、より良く生産する方法、彼のネガティブな状態を断ち切る方法。
同時に、INFP自身は論理的な分析が得意であるため、話を聞いた後、INFJの乏しい視点、特に抽象的な物事の分析と理解をある程度補い、完全に合理的な視点を提供すると同時に、INFJ自身の視点を抑圧することはないだろう。INFJ自身の視点。これはINFの合理的な論理に対する評価をある程度まで拡大し、同時にINFが抑圧されているという誤解を避けるものである(これは本当は何もしない方がいい。コミュニケーションしている間は、INFJに近づこうとしない方がいい。

一方、INTPの合理的な視点は、彼らはまた、多くを参照しているため、より多くのことができるようになります。前の投稿でも言ったように、INTPは選ばれし子どもなので、特に強い物質主義的な視点や善悪の視点を持っているわけではありません。どちらかというと、中立の中で善に偏るところがありますが、出発点は必ずしも「私」ではありません。
私=善である必要はなく、ただ善を選択することでトラブルを避けることができる。
INF
は、何度も言っているように、INTPの選択と似たマスクを持っている。
INTP
の選択と同様に、彼らは優しさ、冷静さ、理解力、親切さを示す。
このことは、INFIが絶対的な善のチャンピオンであり、ニヒリズムの状態に陥っていることを意味するものではありません。
INF
は、すべての人間がいなくなるのが最善だと想像することさえある。

 INTPのような人:不可能ではない。指を鳴らせばいい。

 

 

INFJ Perspectives INTPの魅力をまとめると:
きれいな気質、きれいな魂、論理的な自己一貫性、盲目的に従うわけではないが頑固でもない、絶対的な善人ではないが悪の少ないほうにつくわけでもない、自然存在のあらゆるものに対する絶望的な誠実さ、人間に対する誠実さ、社会的欲求の低さ、人間としての力の低さ、絶対的な信念がない、知的境界線が明白でないため、多角的な視点を提供できる。
INTP
から見ると、彼ら自身の行動力は、人と物事の両方に対する好奇心から生まれる。そのため、INFを発見すると、その人物を特別な存在だと判断するため、自分の分析的欲求を満たすためにINFに近づく。人と話をするとき、相手の感情的な感情に焦点をあてて気遣いをするのではなく、会話の可能性を広げるためにそうするのである。

彼らの考えでは、何事にもルールがあるか、まだ発見されていないルールがある。しかし、INFJの論理は「どこからともなく湧いてくる水」のようなものだ。先ほど述べたように、INTPは普遍的な意味から遠ざかっている。
先ほども述べたように、「うまくつながらない」という普遍的な意味からINTPが抽出するビッグデータは限られているため、INFJの性格にある多くの認知的境界線を突破することができる。この性格が多くの認知的境界線を押し広げるのは、INF自身が次のような理由からである。
INF
自身が人間の本質の暗黒面を通して認知の境界を突破し、第三の視点から自分自身やすべての物事を判断しているからである。彼らは断続的に自分自身や他人を肯定し、たいていは批評家である。例えば、Fiの場合、Teの理想主義者は功利主義を感じ、EPの経験主義者は内面的なものを感じるだろう。精査が不十分なため、外見は派手になり、IFP個人主義は両者を自分自身を見ることで、思いやりが生まれると同時に、消費に対する回避的な考え方も生まれる。欲望に溺れたいが、常に欲望を満たす必要はないという葛藤がある。

INTPは欲望をむさぼることで生じるコントロールの喪失や、消費しすぎることで生じるダウンタイムを伴わず、相対的に静止した状態を保つことができる。ジャッジメントと同様、INTPのエネルギー価 値は勧誘的な欲求を持たず、自ら何かを勧誘することもできないようだ。
と同時に、INTPのエネルギー価値はTeのような支配者意識を作り出し、INTPのエネルギー価 値を形成する。INTPは混乱した思考と混乱した見解を持っている。
言ったように、INFJの論理は「どこからともなく湧き出る水」であり、無から有を生み出すのが得意である。彼らの思考は非常に奇抜で緻密であるため、INFPは情報基盤や分析システムの構造に関する自分自身の信念を疑いたくなる。そのため、INFが仮説を提唱するとき、それを論理的に検証しようとしないのは難しい。
INF
にとって魅力的なのは、数え切れないほどの直観に反しても裏付けが取れていることです。その理論が表現された後、INTPの論理的自己矛盾に必死に吸収され、元の自己が少しづつ蝕まれていく。INFINTPをこの地球上のデータベースの情報不安から癒してくれたが、同時に、INFINTPの論理的自己整合性に吸い込まれていった。

魅力について述べたところで、彼らの付き合い方を分析してみよう:
INF
INTPの前では二度と利他的な性格を使うことはないだろう。
しかし、実際に親密な関係になると、この人格はINFはそれを捨てる。

INTPは、INFENTINTに加え、INFのネガティブなパーソナリティを見る16のパーソナリティのうちの1つである。
ENTP
のパーソナリティは、INFのネガティブなパーソナリティを見るパーソナリティの1つです。もちろんだ。
SNTP
に、良い行動、強引さ、強気、断続的な不合理を示すというように、INTPのとは異なるフィードバックパターンを取得しようとする。不慣れな場面や社交的な場面では自己中心的になることもあるが、必要なときにはみんなを快適にする。そして、INFJは自分の友人の輪をさまざまな箱の中に入れ、あなたが仲間の箱の中に入れられると、社会的な情報源から受動的に遮断される。これは多くのEの人がINFの表面に触れた後に私に尋ねることである。なぜなら、あなたはネガティブな性格を投影する箱の中にいないからです。

そう判断し、長い間その状態を提供する。
あなたを必要としているのです。
続けて言うと、多くの人はINTPも優しくて素敵な人だと判断します。
しかしINFは、INTPの優しさは混乱させるものであり、その優しさの背後にある絶対的な行動メカニズムがあることを理解するだろう。
その優しさの裏にある絶対的な行動メカニズムを見抜く。それが彼らがそうする理由であり、それはNiの一つなのです。
同時に、INFのこの状態を非常に冷酷だと感じるかもしれません。例えば、いつもは利他的なINFJが、突然意地悪な一面を見せたりするでしょう。
突然意地悪な一面を見せたりする。しかし不思議なことに、彼らは常に恨みを抱いたり、強い嫌悪感を抱いたりすることはない。

 

INFは生来の完璧主義者であり、Niの強力な知覚は、すべてに欠点があることを知らせる。INFは生来の完璧主義者であり、Niの強力な知覚は、すべてに欠点があることを知らせます。
INF
は生来の完璧主義者であり、Niの強力な知覚は、あらゆるものに欠陥があることを知らせている。彼らはこうした不変の事実を無視することが難しいため、自己を欺く強い性格を形成し、自己の否定的な性格のアウトプットを通じて、理想と現実の不一致によって引き起こされるダメージから身を守ろうとする。私がINFは決して善人ではないと言ってきたのはそのためであり、INFが常にパープル・ピープル・グループと運命論的な絡みを持つのもそのためである。パープル・ピープルの別名は悪のピープル・グループであり、我々はそれを知っている。

 

 

同時に、彼らは社会的属性から切り離されており、社会の庭に求める相互責任の感覚が苦手である。
感情的なサポート、動物の特徴、需要の相互の小麦の感覚。
彼らは唯一の魂に深いコミュニケーションを望んでいるが、社会的な継続的な他の要件を負担しなければならないときに負担です。彼らは断続的に消えて、断続的にクレイジーSeを求める理由です。
Se
Niを妥協することができるので、INFJは現実の病人や理想的な巨人のようなものです。そして、このメカニズムのバランスをとるための彼らのツールはFe、彼らはNiの機能の狂気をスルーし、それを感知するためにFeを行うので、あなたは快適に感じ、あなたは満足し、彼らはNiに甘え続け、姿を消すことができます。
これは、INTPがそれを見たときに戸惑い、興奮を覚えるものである。なぜなら、それ自体が対人関係で不利になるからだ。
Ni
Fiの人がナンパするタイプ。そして、ナンパされるのは本当に簡単なことなので(武士)であるため、社会的機能を意図的に鍛えようとはしないし、どうせ鍛えたところで(良い意味で)小バカにしか見えないので、ナンパしてくる人を選んでつまみ食いした方がいいかもしれない。

マスターであるINFJは、彼らに正常な情報と異常な情報の両方をインプットし、また、絶対的な信念や定義がない奇妙な考え方とともに、あらゆる種類の複合的な感情を認識する経験を与え、INTPを中毒的な情報受信状態に陥らせる。これは、非常に不健康だが、非常に適切な相互搾取のペアである。タイプの相性だ。

より良い点は、INFXの適応のように、一緒になって無の渦に陥ることがないことだ。そして、INFJは自分の本当の欲求を見せることを恥じたことがないので、ここからまだ現実世界とのつながりを得ることができる。
でも同時に、このペアはそれぞれが自分のダークサイドを引き出しています。そしてお互いを最大限に利用する。それは「Shake It Off」だ。
まさに "クソ "コンビ、ある状態に陥ったとき、あるいは支配したい、支配されたいという欲望を持ったとき、彼らは基本的に排他的になる、という現実的な青写真を描くのは難しい。INFJのエネルギーは本質的に不安定で、あなたへの興味や、そのような精神的支配の状態の出現は一定ではありません。
また、あなたが提供する論理をすべて額面通りに受け取るわけではない。彼らは単に、自分がサブになったときに、あなたのアウトプットを吸収しているだけなのです。だからこの状態は一定ではない。立場が逆転することさえありますが、その代わりINFはとてもマインドコントロールされている当事者。彼らが洞察しているすべてのパターンの答えは、長期的な交際をしたいと思わせるような人に出会うことなく、この人生を素早く乗り切り、再びこのサイクルに入らないことである。
木や一陣の風や雲の方が、五感を再び発生させるよりもいい。

それ自体がお互いの必要性から切り離されているこの人の役割を感じる。
一方INTPは、メッセージを素早く吸収できるどんな役割も尊重する。
戻ってくる役は人間でもいいし、宇宙の他の生き物でもいい。
機能する臓器が1つしか残っていないとしたら、間違いなく脳が選ばれるだろう。INTJは地蔵で、心の中に執着を持ち、自分だけを救う人。 INFは戊戌で、仏の面の使い手で、心の中に悪魔を持ち、侵入して混乱させる人。


悪魔......世界に蔓延する仏面の使い手。INFPは天女であり、心に花を持ち、恋人を通して自分自身を愛する。彼の旅する器のパワーも鏡の投影によるものであることを私は知らない。
INF
の本質は渦であり、この渦は無差別攻撃であるが、渦を皆に見せることを選ばない。

彼ら自身は違った世界を見ており、バーチャルな暖かい世界を与えてくれるのであれば、それを突こうとする必要はない。INFが私の言うとおりにこの世界を見たとしても、心配する必要はない。
ただ、あなたは心理的に攻撃する悪魔の仏陀で、ENTJは物理的に攻撃する戦争の仏陀(悪魔)なんだ。そして、INTPはロープの上で寝ている小さなドラゴンレディみたいなものだから、無理に人間の花火をあげなくてもいい。

 

 

 

N-NOTHING:私は自分が歳気~NTPと一緒にいないことを知っている。
私の声でも雨でもない。でも、私の怒りを受け止めてくれる人を、私の凸凹の表面を探ってくれる人を、私の魂を見つめ、彫刻刀でこの虚空に別れの印を授けてくれる人を、そして私の奔放な愛があなたの冷たい脳をも破壊することを、私は切望している。
私が破壊を選んだとき、私を引き戻さず、代わりに私の狂気に接吻してくれる人を切望する。 

 

 

INTPENTJ

コインの裏と表のようなこのペアは、INTJXENTJのコンボにやや似ているが、探究心とアウトプットが異なる。

Te
は重ならないので、INTPはあなたが結果を出して突出する必要はなく、ただ後ろに立って糸を引くだけですでに偉大な業績である。そして意味が何をもたらすかよりも、意味そのものを求めることを好む。INTPENTPが自由派と呼ばれる理由もここにある。

INTP
の成長は能力の問題ではありません。脳の中の世界はすでにとてもうまく構築されているのかもしれない。
なぜなら、この仮想世界はコピーを分散させすぎるからだ。絶対的な価値がないので、ドライブのために、プラグが接続されていないことは頻繁なことなのです。

 


ENTJ
は言わずもがな、周知の通りTetNiであり、よく発達したENTJを見ることは珍しくないが、高いFiSeとペアになると、INTPの尻に敷かれることになる。

 


このペアの適性について、まず2つの主な特徴から見てみよう。
特にTeの強いentjは非常に魅力的と言われる。
INTP
にとっては混沌の中にある光の感覚がある。

 

 

その期間、当事者は自らの欠落の道標にならなければならないだろう。
そしてENTは、intpの情報基盤を十分に解剖し、そこから実現可能なものをつかみ、手に取ってintpに提示できるものに変えることができる。intpにとっては、絵に描いたような脳内思考をつかまされ、手の中に置かれるのと同じことで、とても新鮮な体験となるでしょう。

また、entjNi(コロケーション)により、紫色の人と中の人
ニー・ポーン・アイランド・ア・イ対手字画、科技,哲学名神
intp
のコード化されたパーソナリティと一致すると同時に、主な考え方が異なるため、entjの考えはintpの分散データベースにとって非常に重要である。
intp
の分散データベースも非常に興味深く、単に人間のプログラムを観察するための斬新なアイデアに含まれるかもしれない。
エンチ・アルファがアルファの中のOに出会った時の感覚と比較してみよう。
フィーリングだ。だからこのペアもある意味、しっくりくる。
これ以上は言えないが、intpはロボットではない、この2つは渋い組み合わせだ。ブレイン・クロスの可能性もあるしね。相性がいいんだ。
entj
intpは肉体的にも精神的にも素晴らしい。また、親密さを求める度合いという奇妙なフィットポイントもある。

 

 

entjは、到達するために集中する時間がとても重要で、intpは、考えるために集中する時間がとても必要だ。
この2人は、普通のカップルのように毎日くっつく必要はないし、しばらく会わなくても大丈夫だ。ミラーパーソナリティは、2人が驚くほど同じように世界を見ることを可能にし、また、より快適にはっきりと落ち着いて話すことができるようになる。
enti
は、ルールやモラルを無視する考え方もあるが(必ずしも自分自身がそうしているわけではないが)intpはとても面白いと思うだろう。
intp
entjの禁欲的なバージョンのようなもので、曹操司馬懿に似ている。
int
陰陽師とやり合う腹黒いタイプで、entpはすべての人とやり合う腹黒いタイプだ。
int
は陰陽をねじ伏せる腹黒さ、entpはすべての人をねじ伏せる腹黒さ。
その時々の現実とアウトプットの。この二人が愛を知らないとは言わないが
でも、核が強くない人、強い天性に自分の気持ちをコントロールできない人は、このペアとこういう関係にならない方がいいと切に思う。相手の反応が無関心にフィードバックされて、傷ついたり、二度傷ついたりしやすい。
彼らは反社会的な性格ではなく、前向きなNTの性格だ。
ただ、自己の欲求を追求するあまり、相手の欲求の成長曲線を無視してしまう性格なのだ。

 

 

しかし、このペアはBEするのも非常に簡単だ。というのも、intpにとって、強い実行力は基本的に強い目的と結びついているからだ。

このような素早い行動と調整は、狩猟行動によく似ていて、イントプには思考や行動の余地がほとんどない。
考える余地も行動する余地もほとんどなく、イントプはプレッシャーにさらされることになる。
イントプの耳によく入る言葉の中には指示を出しているものがあり、イントプは自分の言うことしか聞かない。
イントプは自分の指示にしか耳を傾けない人間として、とても居心地が悪いだろう。この不快感は乗り越えられないものではない。
なぜならINTPは相手の情報を効果的に処理できるからである。
相手の情報を効果的に処理し、その操作の意味を見出すことができる。
そのため、不快感が起こると、その後の行動にそれを加えて分析する。

例えば、entさんが一緒に出かけた時、助けを求めない。

自分の意見を聞かずに、ミルクティーを「飲んで」と手渡すだけ。最初は、「この人は私の意見を尊重せず、自分の主張を押し付けてくる」と判断するかもしれない。しかし、徐々に
エントは実際に習慣的にそう操作していることに気づくだろう。
ミルクティーが飲みたい?何味がいい?と聞くかもしれない。
しかし、もしあなたがミルクティーは飲みたくないと言えば、聞くだろう。

 

 


同時に、entiにはlintpを惹きつけるいいところがたくさんある。
外向的、自信家、分析的、自己主張が強い。
外向的で、自信にあふれ、分析的で、意見がはっきりしていて、中にも外にも強く、目標と実行力があり、とても前向きだ。しかし欠点もある。つまり、非常に功利的で、繊細なエゴイストである。
自分の目標を達成するために、目的を持って言動する。
しかし、intpもまたしばしば功利主義的に社交し、外向的な人を模倣するため、ent功利主義は彼らにとって理にかなっており、最も致命的なのは、今言ったコントロールである。
コントロールされた欲望の街はそれを知らない。

そしてentにとって、intpのこのディフィデンスは、思考における素晴らしい衝突であり悪夢である。entjteアウトプットのもう一つの問題は、それがアドホックで、しばしばアドホックベースでintpを千差万別に把握することである。
気持ち悪くないか?

でも、エンタの第3の機能としてのセ+第1の機能テ、entiFeのドラッグバンドからintpを引っ張り出すことを可能にし、より多くの情報を吸収することができる。
Te
処理マシンのおかげで、より多くの無駄な情報を切り刻むことができる。

この2人の良いところは、ぶつかり合うことはあっても、2人とも自分を表現し、本当に耳を傾けることができることだ。

 

entjintpを燃やすことができる稀有な個性の1つで、特にintpのメスがentjのオスと組んだ場合、あるいはentjのメスがentjのオスと組んだ場合、intpを燃やすことができる。
男性、またはentj女性とintp女性、entj女性とintp男性の組み合わせの場合は、intpがやや弱くなる。
この構成は、intpオスの全体的なチューニングパターンがintpメスほど良くないため、若干弱くなる。

intp
は卵のように傲慢だが、本当に強い相手には喜んで服従する。
ただ、もしダウンした場合、そのアップしたinfp的な愛はすぐに切れる。
ここでintpに敗北する。
これは外的要因にとっても非常に重要で、例えば家庭環境、教育レベ
背景、教育レベル、IQや知性だけでなく、仲良くなる過程で
最高の状態とは、世界の人間としてのintpが最高の状態になることである。
最高の状態とは、川の水としてのイントプ、エンタとしてのボートで、お互いに支え合い、助け合うことができる。

また、intpは少しジタバタしているMであり、そしてentは生活の中ですべてを制御したいのではなく、お互いを参照することです。

このCPのペアは、比較的互いを許容し合えるNTグループの一人に数えてほしい。甘さの虐待度は同等。
ここで覚えておいてほしいのは、intpステレオタイプにロボットと形容されるのは、彼らの合理性と論理性が普通のパラダイムと違うからで、それを誇りにしてはいけない。


彼らもまた、理性と自分の論理を極端に崇拝し、感情的に左右されない判断を自負しているが、実はこの2人はこのことに注意を払わず、快楽を知覚するのが少し難しく、欠乏は過食につながり、所有だけが安心感を生む。だから、intpentjを気遣うために、自分のステータスを少し調整する必要があるかもしれない。
他の機能でモデル化されたとしても、どちらも少し成長する必要がある。

 

相手の行動のメカニズムに対する共感も必要だ。

そうでなければ、entjは修正を求める可能性が高い。
それは、彼らが何をするかということではなく、それがない他の関係からハンカチに行くということだ。クズから抜け出したentjについて多くの人が言うのはそういうことで、彼らはある意味、実際とても哀れなんだ。自分の境遇を受け入れられないのも自業自得だから。

entj
intp
宇宙の面白さは気になる。
でも宇宙に比べたら
あなたの方が面白い。
たぶん、あなただから。
僕はまた心臓を育てることができる。
生きている心臓は、あなたのために鼓動し、あなたのために止まることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

虚栄心

 
 

メンタルに一番悪いとされているSNSのインスタ。ここまで大衆化されたアプリが人間の精神にどう作用するのか、はたまた、人にどう影響し、それによってどう行動も変わるのか。影響を受け行動が変わるということは、人生そのものが変わるということでもあり、けっこう大きなことだ。だから個人的に気になるし、気になってしまった以上はここを掘らずにはいられない。

 
 
 ジラールによれば、人間にとって普遍的な模倣的欲望は欲望の対象への媒介者としてのモデルが主体にとって憧れにとどまる外的媒介の段階から、モデルとの競合関係にはいる内的媒介の段階に至って、深刻なテーマとなる。
 
 
 11世紀以来貴族は社会的階層秩序のなかで地位が低下し続け、平民は上昇し続けてきた。この動きは世界的でかつ持続的であり人間の意思では抑えられない摂理であるということを覚えておきたい。 
 
 
 内的媒介が生む、熾烈な妬みが社会全体を動かす原動力にまでなったのはフランス革命後の19世紀。この世紀の特徴は、政治的次元では国民主権、社会的には生活様式の画一化と社会的階層の流動化、精神的次元では個人主義をあげることができる。
 
 (その時代のことを知るにはまず、年代的に前後のことを調べる。それから政治、社会、個人、文化について。時の権力者は誰か、社会情勢はどうか、流行っていたものは?着ている服は?食べていたものや読んでいたもの、聴いていた音楽。全てをさまざまな角度から調べていく作業。それでようやくどんな時代観なのか少しだけ掴める。) 
 
 
 
 バルザックは『ベアトリクス』のなかで「万人の平等を宣言することで、人々は「羨望の権利宣言」を発布したのである。われわれは今日、精神や産業や政治という一見すると平和な領域に移された、革命の乱痴気騒ぎに耽っているのだ」と述べていた。 もっとも、19世紀前半では、貴族の出自や『赤と黒』のジュリアン・ソレルのような並外れた才能、あるいは財力がなければ、こうした羨望を実現することは難しかった。しかしフローベールの『ボヴァリー夫人』では、ノルマンディーの寒村に住む農民の娘が社交界の貴婦人と比べて、平等ではないことに耐えられず、旧約聖書のヨブのように、「神の不公平」を呪詛にするに至る。 民主主義的羨望が社会のあらゆる階層に浸透したことが示されている。興味深い点は、エマと一見対照的な薬剤師オメもまたパリ風俗に憧れ、医者の権威と名声への羨望を常に抱いていることである。そこで彼は権力に接近をはかり、選挙等々で知事のために骨を折るのだが報われず、「国王に応分の処遇」を嘆願し(i le suppliait de lui faire justice)、小説の結末で「世論の支持」を背景に念願の名誉動章を受動することで物語世界での勝者となる。こうした平等化の進抵がもたらす望の時代に抗して、ジラールイエス・キリストの模校によって悪の連鎖を断ち切り、隣人を放すキリスト教的愛の展望を提示している。
 
 
 
バルザックも『村の司祭』のなかで、平等の観念に基づいた博愛主義 philanthropie は「崇高な誤り」であり、宗教は「贖有 indulgence という尽きることを知らない宝庫」を開くことで、現実に存在する様々な不平等にもかかわらず、「悔悟」という感情の共有によって「すべての人は平等になる」と司祭の口を借りて語っている。また「現代史の裏面』では「私たちは偉大で崇高な聖パウロが定義したような慈愛chariteを実践するのです。慈愛だけがパリの傷口に包帯をすることができるからです」という信念を持つラ・シャントリー夫人が組織する「慰めの兄会」は、『キリストに倣いて』を福音書に準じる書物として位置づけて、慈愛を人知れず実践している。 
 
 ところが、「ボヴァリー夫人』では、結末で亡きエマの愛人であったロドルフと偶然再会したシャルルは、ロドルフを「もはや!恨んではいません」と一方的に激すものの、彼の言葉はそもそも赦しをこうてすらいないロドルフには届かず、ロドルフの目には、シャルルは滑稽なお人良しにしか映らない。またモーパッサンの『脂肪の塊』は、そうした平等化の進む状況の中からスケープゴートが生み出されていく典型的なプロセスを鮮やかに示している。
 
様々な社会階層の人間(ヒロインの婚・、工場経営者の金持ち、伯爵夫妻、修道女、民主党員等)が同乗している乗合馬車がすでに民主主義的空間であり、全体の危機の到来と同類ともいうべき乗客同士の競合、そしてスケープゴートプロシア軍の士官と一夜を共にせよ、という「全員一致」の要求)へ至る物語の展開は、ジラールの模倣論をなぞっているかのようでもある。 模倣的欲望に関して、19世紀にはジラールが言及していない重要な著書が刊行されていることを付け加えておきたい。
 
 
それは模倣的欲望が人間の社会そのものを作り上げているというタルドの『模倣の法則」(1890)である。模倣は、模倣対象に対する信や絆を暗黙裡に前提としている。ジラールは、模放的欲望に原罪を見て、その否定的な側面にもっぱら焦点を当てているが、タルドによれば、模倣は社会的集団を構成する社会心理学的核心であり、慣習、言語、宗教、流行現象、さらに群衆や犯罪の問題などにまで深く関わるものである。
 
 
 
19世紀は、模倣的欲望が、肯定的な意味であれ否定的な意味であれ、いたるところで、個人や所属集団、階層を超えて社会全体を動かす力となった時代と言えよう。 マーガレット・ミッチェルの大作『風と共に去りぬ』は、南北戦争が始まった1861年から、戦争後の再建時代が終わろうとする1873年までの激動の時代を背景とした歴史小説である。舞台は旧南部の心臓部と言われたアトランタとその周辺の農園におかれている。
 
 
その農園の一つに育ったスカーレット・オハラが、南北戦争の勃発、北軍の侵入、南軍の敗北、戦後の復興を生き抜くという設定であるところから、この小説は南北戦争を南部側から見たものとしてユニークな地位を占めているとされている。しかし、この小説の歴史小説としての価値もさることながら、女主人公スカーレットをめぐる人間関係の中の「三角形の欲望」的要素に注目することもまた、この小説の重層性を明らかにすることになるだろう。
 
さらに言えば、ジラールはこのタイプの欲望を持つ主体として、様々な文学作品から例を指摘しているが、女性としてはエンマ・ボヴァリーだけを指摘しているので、この点において、スカーレットに注目することは新たな試みと言えるかもしれない。
 
 
 作者は冒頭から、女主人公スカーレットが、自律的な欲望を持たず(あるいはそれに気づかず)、他者の欲望に影響されやすい、ある意味幼い精神の持ち主であることを提示する。冒頭からの展開を少し見ていこう。 スカーレットは、タラの大農園主オハラ家の長女で、個性的な美貌と激しい気性の持ち主である。小説は1861年4月のある輝かしい午後、タラ農園のポーチの涼しい日陰に、タールトン家の双子の兄弟スチュアートとブレントとともに腰を下ろしておしゃべりを楽しんでいるところから始まる。
 
 
 

 

 
 
 
彼女は16才、逞しい体をした19才の双子たちは、大学から放校されてきたばかりだ。双子の話が、近々始まるかもしれない戦争のことから、アシュレ・ウィルクスとメラニー・ハミルトンの婚約発表に及ぶと、スカーレットはショックを受ける。彼女はアシュレが好きだからだ。 この冒頭部分で注目したい情報がやつある。1つはスカーレットが黙りこくってしまったのを不思談に思いながら帰る道々、双子が次のように話すことである。
 
 「スカーレットだって、アシュレがメラニーといつかは結婚するということくらい知ってなければならないはずだと思うよ。おれたちだって何年も前から知ってたじゃないか。ウィルクス家とハミルトン家は、むかしから、いとこどうしで縁組みする間柄なんだ。だからハニーウィルクスがメラニーの兄のチャールズと結婚することと同様、アシュレたちのことも、だれだって知っているはずだ」 
 
 
 この会話から、アシュレがすでに「売約済み」であり、他人のものだと約束されていることをスカーレットが知っていたことがうかがえる。もう1つの情報は、スカーレットの性格についてである。作者の言によれば、 スカーレットは、生まれつき、どんな男にしろ、自分以外の女に心をよせるのを黙って見過ごすことができなかった。だからインディア・ウィルクスとスチュアートが親しそうに そのあつまりに出席しているのを見ると、すぐに奪的な本性をたかぶらせた。そしてスチュアートだけでは満足せず、ブレントの心までも支配しようとし、ついに完全にふたりとも征服してしまったのだ。 
 
 
 このくだりから、スカーレットの注目が若者たち本人ではなく、同性たちに向けられていることがわかる。つまり、他の女の欲望の対象だという理由で、彼女はその対象を自分のものにしようとする。双子の兄弟スチュアートとブレントに関しても興味深い情報が提供される。 去年の夏まで、スチュアートはウィルクス家の娘インディアに求婚していた。両家の家族たちはもちろん、この郡全体が、この結婚には大賛成だった、おちついたがまんづよいインディア・ウィルクスの人柄が、彼におちつきをあたえるだろうと郡の人たちは考えたからだ。ともかく人々は、それを熱心に希望した。
 
 
 
そしてブレントさえ不服でなかったら、スチュアートは、おそらく結婚してしまっただろう。ブレントも彼女がきらいではなかったが、器量も悪いし、平凡な女だと思っていた。いつまでも手を組んでやって行きたいスチュアートの妻には、自分までほれこむような相手が望ましかった。これは、この双子兄弟にとって、はじめての意見の相違だった。ブレントは、スチュアートが、自分のすこしも興味のない女に心をひかれているのが腹立たしかった。 
 
 
 そこへスカーレットが登場して2人の心を奪ってしまったのだった。 それ以後、彼らは、ふたりとも彼女を愛するようになった。インディア・ウィルクスのことも、ブレントがほのかに恋ごころを感じていたラヴジョイのレティ・マンローのことも、ふたりの心から遠くかなたに押しやられてしまった。スカーレットが、彼らのうちのひとりに愛を許したとき、愛をうしなったほうの他のひとりは、はたしてどうするのか。兄弟は、そこまでは考えなかった。そうなったら、そうなったときのことだと思っていた。ふたりのあいだには嫉妬がなかったから、現在は、ふたりで仲よくひとりの女を愛するという事実に、ふたりともじゅうぶん満足していた。 
 
 
 この双子たちの恋愛感情に関する情報も、実は小説の冒頭から「他者の欲望を自分の欲望とする」構図を示唆しているかもしれない。双子たちは欲望の対象である女たちとの絆よりもお互いの絆の方が強いので、2人共が愛せる女を捜さざるを得ない。
 
 
そこへ彼女なりの理由で入り込んできたのがスカーレットである。表面的には双子は2人で1人の女を奪い合っているように見えるが、彼らの本当の関心は互いへの関心である。お互いがお互いの媒介となり、お互いの恋愛の対象を愛しているのだ。 
 
 
 スカーレットは、鼻っ柱は強いが自己評価の低い人間であって、自分の本当の欲望はまだ見出せず、迷走状態にあると示しているのかもしれない。
 
他人が少しでも欲していると思えた対象に彼女は向かって行く。なぜこのような性格であるのかについては、作者は明言していないが、母を崇敬しながら母のようになれないと自覚している自信のなさから来るものかもしれない。 本当のものを得られないため、偽の賞品で我慢するしかない状態なのだといえるかもしれない。 (割愛)そしてメラニーの死とともに、その精神が滅び去ったことを作者は語る。
 
 
 
一つの文化が終焉したときこそ、人はその値打ちを知り、自分の真の欲望を知るのだろう。 彼女は、愛するふたりの男を、ふたりながら、ついに理解しなかった。そして、そのために、ふたりともうしなったのだ。もしアシュレを理解することができたら、彼を愛するようなことにはならなかっただろうし、もしレットを理解することができたら、彼をうしなうことはなかっただろう。 そのことが、おぼろげながらわかった。いったい自分は、誰にしろ、人を本当に理解したことがあったのだろうかと思って、彼女はさびしくなった。スカーレットは、自分をも他人をも理解しない人間である。
 
 
けれども、自分の理解しない価値を所有しているらしい人間(アシュレ)に惹かれる。そして、彼を理解できなければできないほど、手に入れたいと願う。 ジラールは言う。 虚栄心を持った男がある対象を欲望するためには、その対象物が、彼に影響力をもつ第三者によってすでに欲望されているということを、その男に知らせるだけで十分である。 スカーレットの虚栄心について、作者は枚挙にいとまのないほどなんども強調している。
 
 
 
ジラールの理論をそのまま応用できないにせよ、どこか似た図式がここに現れているのではないだろうか? 彼女はアシュレと、彼女が理解不可能な「教養ある南部」(やメラニー)の相思相愛状態のなかに割って入ることができず、欲望を募らせているのではないだろうか。「ほんとうの奥深いもの…....普通の恋愛とは違う性質の愛…...神聖な…...アシュレの内部にあって彼女の理解をこばむもの」と作者は小説の冒頭で紹介している。 
 
 
 
 自分の真の欲望を知るのは容易ではない。それを知らずに死んでく人だって多いだろう。どれだけ自分の心をのぞこうと一向に見えてこない根気のいる作業だ。でもやらなければいつまでも空虚。虚栄心に振り回される単なる奴隷のまま。私は自分が主人なので、やるしかない。
 
 

 

聖トマス・アクィナス

 

 

トマス・アクィナス(1225-1278/訳注:中世キリスト教世界最高の哲学者)の残した業績はあまりに深く強烈であったため、785年もの間、記憶に残り続けている。

 

 

 

彼は天才であり、優れた神学者であった。

しかし、彼は物静かで、穏やかで、好奇心に溢れ、加えてフットボールフルバックが務まるほどの巨漢であった。

彼が若い修道士だった頃、人々は彼の無邪気さを愚かさと勘違いしていた。

人々は彼を 「間抜けな牛」と呼んだ。

ある日、仲間の修道士たちが彼に駆け寄って、こう言った:

「トマス、見てごらん!豚が空を飛んでいるよ!」

トマスは飛び上がると、窓にへばりついた。

他の修道士たちは大歓声を上げて笑った。

彼はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った:

「私は、兄弟たちが私に嘘をついていると思うくらいなら、むしろ豚が空を飛べると信じる方を選ぶ」

 

 

 

以下は科学的に証明されている、知能の高い人々に関する事実です。

1. 夜更かしをすることは高い知能のサインであり、夜に脳の活動が増加することを経験します。(ただし、健康には良くありません)

2. ユーモアのセンスが高く、面白いことは高い知能のサインです。

3. 世界の半数以上の人口は平均的な知能しか持っていません。

4. 知的な人々は常に世界についてもっと知りたいと思っています。

5. インテリは遅く寝て遅く起きる傾向があります。

6. 高い知能を持つ人々は、一般の人々よりも友人が少ない傾向があります。

7. 独り言を言うことは高い知能のサインです。

8. 知的な人々は無知な人々よりも自分を過小評価する傾向があります。

9. 知的な人々はよりオープンな心を持っています。

10. 彼らは伝統的な価値観を持つことが少ない傾向があります。

11. 成績や年齢は知能を決定するものではありません。

12. 過度な心配は高い知能と関連しています。

13. 知的な人々はおそらく紛争を避ける傾向があります。彼らはすべてを理解しているが、何も言わない傾向があります。

14. 彼らは通常嘘をつかないが、嘘をつくと非常に上手です。

15. 非常に知的な人々は社交的に不器用です。

16. 非常に知的な人々は他の人よりも忠実です。

 

 

 

実存主義は壊れたが実存的に生きるしかない

人生の無意味感や空虚感を感じると、人は必ず同じ行動を取ります。

まずは、攻撃、退行、そして気晴らしとして逃避反応。そのいい例として薬物に走ることが挙げられます。世の中に登場するやたらと攻撃的になる少年たち、幼児退行する大人、そして酒や薬物などの中毒になりやすいお手軽な逃避に逃げる人たち。

はるか昔から変わらない、人間の反応として常にそこにあるものです。
 V.E.フランクル先生はこういいます。「幸せは、目指した途端、逃げていきます」と。_

私たちは、あまりに目的を追うがゆえに、その目的をなくしてしまうという傾向にあるわけです。その虚しさをなくすために、私たちは考えなければいけないことがある。

どんな幸せになりたいのか。自分の求めるものが本当はなんなのかというところ。これは、どこかで誰かが言っていたものではなく、
自分にしかわからない自分だけの幸せのことです。結婚したら幸せとか、お金持ちになったら幸せとか、成功したから幸せとかいう、薄っぺらな表面のなぞっただけの、トロフィーを欲しがるような目標思考的なものとはまったく違うものです。

「大事なのは、あなたが体験した出来事に意味を与えるのではなく、意味を見出すことです」

幸せは、追いかけ始めると、逃げはじめます。

人間は、三つのやり方で意味を見出すことができます。一つは創造(クリエイティブ)。体験、態度です。この三つによって意味を見つけることができると言います。

創造と体験は、なんとなくわかると思いますが、最後の態度とは?

V.E.フランクル先生がアウシュビッツで体験した–   極限の三年間の中で過ごした人間でも、一切世間を呪わずに、すべてを受け入れて、そこにいる自分に意味を見つけたとき、その態度こそ −  それは行動しなくてもいいの、その人がそこにいるだけで価値がある。

人間の存在、今ここに存在しているということを、外に向かってではなく、自分自身に問わなければ生きていることが無意味になる。

自分にとって安心とは何か、満足とは何か、幸せとは何か、を自分自身に向かって矢印を向けないとそれは掴めません。経済的な豊かさなんていうのも、水の流れに手を突っ込んで掴もうとしているようなもので、それは掴むことができない。水の中に手を入れて、掴むのではなく、水を感じるということ。(もうここら辺からわからなくなってきますよ)

とてつもない苦しみに遭遇したとき、その苦しみをどうにかしようと思わないでください。その苦しみに対して、あなたが、どういう態度をとったか。それだけであなたは素晴らしい成功を収めることができるんです。

時間と人間との関係は、砂時計を見れば説明できます。真ん中にくびれがあって、上から下に砂が落ちていきます。満杯だった上の杯は、次第にからっぽになっていくのが見えますね。そして上がすっからかんになって下がいっぱいになった時に、その人はいなくなります。

そう考えると不気味ですね、落語の死神では人間の寿命をろうそくで表していましたが、砂時計は、過ぎた時間をも、そのまんま見せてくる感じがね。

だけどフランクルはいいます。「なにを虚しがっているんだ」と。「目指すべき未来、上から落ちてくる砂というのは、過去に落ちて、過去のなかにこそおまえの未来があるのではないか。」…奇妙なパラドックス
ということは、私たちはいつも未来の中にある過去を目指して生きているわけです。

人間というのは迷った時に
自ら問うて自ら答える生き物なんだと。

そう問うたところで誰が答えるのか、あなたしかいない。ここまで来れたんだからいいじゃない。あんなことも、こんなこともあったけれど、こうして図太く生きてるじゃないって、鏡を見れば乗り越えた自分(証拠)がそこに写っているわけですからねって。そして、人生に聞くな、答えなさいって

神様どうしてですか?ああですか、こうですか?聞くんじゃない、おまえは答える側なんだよ。という厳しくも優しいお言葉。

だけど残念ながら、私はなにかの使命や、正義感みたいなものに心が燃えるタイプではないのです。だから、自分がこうしなければ!みたいなことでは立ち起こるエネルギーは湧いてこない。もちろん、じぶんのなかに、無限にわき起こるがあることは知っています。でも見つけられそうで、まだ完全には見つけられておらず、だからこそ、それは自分で探していかなければと思うのです。だから、フランクルのいうことはわかります。そして同意です。

つまり、プルーストの紅茶に浸したマドレーヌなわけです。ホメロスオデュッセイアで書いたような旅、人間が経験しうるすべての冒険をし多くの神話的な存在や支障を乗り越え故郷に戻るというのを、マドレーヌ一つでやってのけたプルースト。主人公にとっては、紅茶に浸したマドレーヌであったが、香りが記憶を呼び覚ますこともあれば、曲や音、光、痛み、味、物が記憶を呼び覚ますこともあるだろう。自分の中に積まれたクオリア、体験質の蓄積が自分の財産。

真珠の耳飾りのあの真珠を見れば、フェルメールを想起するのと同時にレールモントフの詩を思い出し、その頃に戻ってしまう。意識はどこでもドアのように時間も空間も瞬時に移動するタイムマシーンになる。人間とは空想的で、現実的で、悲劇的で喜劇的で、つまり矛盾した、あいまいな生き物であると思うからこそ、自分のことを分かっているようで、分かってなどいない、流されやすく、かといって人に決めつけられるのは嫌いで、わがままで怠惰で、なのに好きなことなら頑張れる。そう思っているのに、疲れていたりストレスが溜まってくると愛した人でも捨て、現実を投げ出したくなる。誠実や真意なんていうのも、誓っているその時は、本当にそう思っていたのでしょうが、時が経つに連れて物事は変化し、風化する。熱いものは冷めていく。それなのに浅いものが深くなる。自分も矛盾しているが、この世の法則も矛盾しうるものがたくさんある。だから混乱するのでしょう。わかりますか、私が答えが出せないわけを。答えがありそうで、やっぱりないのではないかと同時に思ってしまうわけを。V.E.フランクス先生。

青い目が欲しい

 嫌悪感、罪悪感、憐憫、愛が一続きになった感情。人間の本性を捉えている。

−やさしい気持ちからの強姦、妊娠、発狂
この流れが凄まじい

 

 

 

 
 

黒人女性作家のトニ・モリスンの『青い目が欲しい』彼女はこのデビュー作でノーベル賞を取りました。

黒人の女の子が小さい頃に可愛い可愛いといって愛でるお人形が、白人をモデルにしたお人形なことにまず違和感を持つ。これが、「美」というもの?この白い肌、細い手足、くりくりのブルーの目が可愛いもの?生まれつき肌の色が黒い黒人にとってそのお人形を愛でるとはどういうことなのか。それに対してどう感じるか。もちろん感じ方は人それぞれだけれど…

この作品には同じ黒人でも、美の観念の刷り込みに対して違和感を感じるクローディアと、植え付けられたものをそのまま"それがいいものなんだ"と信じて青い目が欲しいと発狂するペコーラとの対比がある。

美という観念に正解はないのでいくらでも刷り込める。これが、美です。これが、正解です。ほら輪郭を削りましょう鼻を高くしましょう美白にしましょう美黒にしましょう、日サロで肌を焼いてくださいギャルが流行ってますやっぱり白くしましょう白ギャルの時代ですいや韓国アイドルの時代です痩せましょう。

なんで贅肉付けてるんですか?穴が空いた服着てくださいよ!骨が出てないと美しくありません骨なんかでてたらみすぼらしいでしょ筋肉がないとだめです筋トレしましょう女子も腹筋を割る時代ですそしてその写真をインスタにあげましょう映えます映えのために見栄を張ってくださいいいねが欲しいでしょう。

お人形遊びしてたはずが、お人形になっていたのは女の子側でしたみたいな。

ほらほら犬のようにドーパミンというエサ目掛けて走ってくださいほらペチペチ

わりとこんな感じ🐕

でも結局ブスデブバカが揃うと生きるの地獄だから容姿ってほっといていいもんでもないんだよな。刷り込まれた美の概念VS生き辛さ。

醜すぎてもしんどいけど、美しすぎてもアンドレセンみたいなことになる可能性があるのでリスクだから、きっと中の中くらいが一番平和なのに、中の中は自分に満足できないので優れた人に憧れ、羨み、呪いますね。長い人生において平凡はあまりに退屈で満足できないのでしょう。結局どこのポジションでも不満は付き物だ。


そう思うと全てが茶番に思えてくる。なにもかもが表層的で、心に響くもんなんかない。こんなものに満足できてる人ってどれくらいいるのか知らないけど私は空っぽすぎて何も感じれなくて虚しくて仕方ないから、こうしてワイルドを何度も読んでいる。

 
 

持続可能性よりも共有可能性

 

 

 

「知的になにを理解しても、それが喜びだってことを経験してない人間に何を言っても響かないしまったく無駄なんです」

 

「人と本当に接することがないのに、人にちょっかいを出すというふざけた状況。

同じ世界に入るという体験なしに人と本当に関わり合えるのか。こんな複雑な生き物同士が共鳴せずに関われるのか。その方法がまずは同じ世界に入ることなのに」

 

「自然はいいですよ本当に簡単に死ねるところなんで、同じ共通ラインに立てます」

 

「passionは受苦、パトスは上から降ってくるもので享受というのは受苦としての情愛であり、死ぬかもしれないというのは喜びなんだよ」

 

「尊厳なき存在、入れ替え可能な自分じゃなくてもいい世界線で人はどれだけ満足して生きられるだろうね。」

 

「自然とフュージョンする、仲間と同じ世界に入る、突き動かされる享楽を知っている者と、喜びを知らない者。ここで問題が起きる。喜びを知らない者は、喜びを知っている者を見つけると、嫉妬して途端に打ち壊しに走る。

 

文化的劣等感に満ちた人間芸術なんて無用なんだ!とかいう瑣末の悪い連中をどうしていくか。こいつらをエンロールできる可能性はゼロ。だからこいつらを取り除いて世論形成するしかないというふうにしか、考えようがない。

 

ここでキーワードになるのは子供。子供は基本的にはギリシャ心身の性能と同じものを持っているんだけど…価値に完徹する構えを持たないように躾けられてきた。そうしないと、クラスで浮くよ、お前空気読めねえじゃんとか。キャラを演じなきゃいけないというクズな社会空間に適応して育ってきたら、劣化していくのは当たり前なんですよね。しかし外側で何が起こってるのかは明白なのでその外側を想像することは簡単にできる。」

 

「失敗は成功のもとで恵まれていることは堕落の始まり。ニーチェ的にいえば悲劇の共有が価値の出発点なので、悲劇を共有して我々はこれからツケを払っていくんだろう」

 

「去勢がないんです。価値の喪失というスタートを切れなかった」

 

「自分が本当に愛せるものにどれだけ向き合っていけるかなんじゃないかとおもいます。」

 

ハーメルンの笛吹きみたいに綺麗な音色でだまして連れてきて、「おまえたちの生き方は根本的に間違ってるんだ」ってパチーンと引っ叩いてくるアートがいいと思う。」

 

「ロマン派はそうするべきだよ。社会の中に閉ざされることが当たり前だと思ってきた人間たちに社会の外側に開かれることによって今までと同じ生き方はできなくなる体験をさせる。」

 

「騙して連れてきて衝撃を与えて今までと同じ生き方はできなくさせるっていう。それを目指していけ」

 

 

 

「ハピネスよりウェルビーイング規範的な価値のあるよき人生不幸や不快はあって当然で不幸や不快がまったくない人間の幸せな実感ってあり得るでしょうか

 

一時期言われてたハピネスよりウェルビーイングは、規範的な価値のあるよき人生不幸や不快はあって当然。不幸や不快がまったくない人間の幸せな実感ってあり得るでしょうか。あり得ないよね、それは人間が記憶の動物だからですよねって概念。快不快で性愛や自然を決めてる時点で終わりだ。」

 

 

 

 

 

多分わかりやすい言葉で傷付けようとしているのは彼のアプローチだ。おまえら、本当にクズだなクズ、バカ、即死しろ

 

このままだとクズなんだなというのを自覚させてハッとさせて、じゃあどうすれば…?と変えるための布石を打っている。わかりやすい言葉を選ぶのはそれこそバカにも響かせる為だろう。バカは掃き捨てて、知識階級やある程度知的な層にのみアプローチした方が話が通じるし楽だろうに。本当に優しい。

傷を付けて、今までとは違う生き方をさせる。去勢させる。価値を喪失させることでスタートを切らせる。今までの社会的な、空気を読んで自分を殺すというものの外に出させる。アートはこれをやるべきでものなので、不快で、傷ついて、否定された気になって、混乱して、でも頭から離れない。素晴らしいね。

 

 

 

 

三島由紀夫のいうように、日本人の空っぽな、価値完徹の意志が持てないのはなぜだろうと掘っていくと、自然が豊かだったからご利益信仰以上のものを持たなかったというところがあり→島国ゆえ外国のように絶えず移住に苛まれたりしなかった→陸続きは自分達に起こる悲劇はどうして起こるんだろうって理解する方向に変わっていった


という流れがあって、イスラムも生け贄宗教だったし、生け贄を倍にするんで!とかも散々やったが全然うまくいかず酷いことばかり起こった→生け贄をこんなにあげてるのに全然聞いてくれない!→それ自体が神を冒涜してるのでは?相対である人間が絶対である神に取引をしようなど烏滸がましいのではと...

そこから宗教の意味も変わっていく。ご利益信仰...つまり生け贄信仰含めた冒涜から自分達の悲劇を理解するための意味の追求へ。なぜ不幸なのかを理解する為の一神教が文明社会を理解する為のフォーマットになっていった

自然信仰から出てきたのは生態学的平等主義。なぜ人間だけを特別視するんだ?理由を示せよ。世界は生態学的全体性を見渡せる者は人間だけを特別視しない。人道的、非人道的なんてものさしなんか、くだらない。この発想はある観点から批判はできるがこの思想を進化させたものをディープエコロジーという。

人間じゃなくてもよくね?ってことが増えてきているいま、なんとなくこっちの思想に偏る人が増えてきそうだなとは思う。はたして理性はブレーキだろうか。ナチスは非常に理性的だった。理性以外のブレーキはなにか。感情の働きだ。暴走した理性は感情に裏打ちされた意志が止める。でも感情の働きは劣化している。それは予言されていたね

存在論の哲学と有限性の哲学が記述するような、ある種、知識化を支える技術化を支える産業化を支える...という生態学的な変換を辿っていくとほとんどの文明は人類と同じようなものを辿る。なので文明は非常に寿命が短いものだと考えられる。誰かのせいにして終わるような問題ではない。

テックを頼れば人間を頼らなくてもいいよね!という、これは間接化だけど、この間接化によって我々が何百何千年と培ってきた生活形式を失いそれによって育まれてきた感情の働きも失いつつあり、

こういう人類史的な流れを見てほしいと

説明しなければもう理解できないような遠い関係性のなかで、いかに価値を維持するのか。無理したような話になってしまっている。学と芸術は元々似ていて、外の世界に連れ出す。外に出たらなかなか平穏無事に元には戻れない。不安な気持ちになるでしょ、ざまあみろ

映画や芸術ってのは、人によってどうとでも受け取り方があるどうとでも見ることができるってのんきなこと言う人がいますがそれは嘘です。芸術には、間違った享受の仕方と正しい享受の仕方ってのが明白に存在します。「どう受け取ってもいいんですよ」そんな生ぬるいことをいう教員や表現者自身が、いかに観客を劣化させてきたか。

わからないものに苦しめられている。わからないからそれを粉飾決済しようとして刺激やエンターテイメントによって忘れようとしている。けれど、根本的な不全感というのは埋め合わせられない。みんな神経症的になっていく。どうしたら自分の体内時計を合わせられるだろうか

自然生態系と自分を取り巻く他者共同体とのスケールを合わせていくことは重要だよ。

 

政府がなんとかしてくれればいいじゃないか!なんて、できるわけないじゃん頭悪いんだから。自分達に不利益になるような法案は通すわけがないんだよ。しかもそれは加速するね

だから崩壊を加速してくださいね、と。

どうしてそんな生態学的思想をするのだろうか?

まず、ご都合主義がきらいなんだ。☜私もそうだ。誰かの勝手なご都合主義には吐き気がするし、どんなにそれっぽいこと言われようとそれってお前の勝手じゃね?が抜けないので納得出来ず、騙されようもない。ある意味私のような根本的に理解し納得しないと常に疑いが生じてしまうタイプは、もう根本からやるしかない。

生態学的思考は、ネットワークの全体宇宙全体が含まれる。
我々は少なくとも6回の大絶滅の末、今の地球生命圏を持っている。6回の大絶滅のうち大半は全球凍結、つまり寒冷化によって起こっている。寒冷化が起こったのは超新星爆発が大量に起こってその結果ガンマ線が降り注いで雲核が形成されたから。そういう宇宙規模に前提付けれる関係の中で今我々がいるってことの全体を見るのが生態学的思考です。この思考からすると、大絶滅って悪いことなの?ーこれがナチス的思考に繋がるわけです。では、これに抗うためには、なにが必要なの?思考として価値観としてー それを徹底して考えるって営みが必要なんです。それをやった人はあまりいないんですよ。

J・ベアード・キャリコットはそれをやった一人です。何も考えないで、ecologyってのは自然が大切!ってことでしょ。お前何年生きてきてんだよ、どんだけ勉強する時間あったんだよ。だってエコロジーとかいうなら、エコロジー"ルーツ"って調べないの?調べるべきだよ。


こうした生態学的思考で考えると、破滅のなかから希望は生まれるんだ。

よいものはわるいものからうまれ
わるいものはよいものからうまれている

多くの不全感をなくすためにも、自分はどこにいて誰と関わっていてというのを思い出す。自然体験はそれを思い出させてくれる、世界との関係性というものに自分を再び位置づけ直す。

William brake

 

 

 

 

ハンニバルやドラマMENTALISTになどにも度々出てくるウィリアム・ブレイク

 

ドラマでちょくちょく出てくる『虎』

 

虎よ虎

赤々と燃える

暗い夜の森で

どんな不死身の手や目が

その恐ろしき造形を作り得たのか

 

どこの海や空に

その目は燃えたのか

 

神は羊を、そして、虎を作った

闇のない光はない

 

死のない生も。

 

 

 

 

ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757-1827)はロンドンの下町で銅版画師とし て貧しい職人生活をしていた。挿絵版画の仕事の傍ら、自らの思想を明らかにするため、 詩と絵の両方を同一画面に配置する方法「彩飾印刷(Illuminated Printing)」を開発し、約 20もの作品を残している。

 

彼が書くのは隠された無限なるもの、近代的な合理主義によって隠された真理で必ず犯人は変身願望を持っている。

 

ミルトンの『失楽園』では救世主とされるのは欲望を抑制する理性であり、ヨブ記において神を誘惑するサタンと同じ。しかし、ブレイクが考える救世主は一度堕落した後、奈落の底から盗んできたもので新たな天国を造ったと考える。

 

欲望にはエネルギーがくっ付いてくるので、理性を働かさるとエネルギーの方がなくなっていく。そうしてエネルギーを無くした欲望を『欲望の影』と表している。

 

Without Contraries is no progression. Attraction and repulsion, reason and energy, love and hate, are necessary to human existence. From these contraries spring what the religious call Good & Evil. Good is the passive that obeys Reason. Evil is the active springing from Energy. Good is Heaven. Evil is Hell. (E 34)

 

Foster Damon が『ブレイク辞典』で繰り返し説明しているように、ブレイクにとって、 「対立するもの同士は等しく真実であり、互いにとって不可欠」なのである。こうした対立概念は、後期の作品群の中で「否定」の概念を伴って再び示されるが、ブレイクは、一方 が切り捨てられる否定ではなく、あくまで二者の存在が保たれる対立を重視する姿勢を貫いていることが分かる。

 

 『天国と地獄の結婚』で対立概念を示した次のプレート「悪魔の声(The voice of the Devil)」では、「全ての聖書と聖典」が前提とする霊肉二元論や、肉体とエネルギーの否定 といった考えは誤謬であるとして、次の三点こそ真実であると示す。 1. Man has no Body distinct from his Soul…  Energy is the only life and is from the Body… 3. Energy is Eternal Delight (E 34) ブレイクが対立概念を重視した理由の一つに、ここで見られるようなエネルギー賛美の姿勢が挙げられるだろう。

 

「永遠の歓び」であるエネルギーは、物事の進歩を促す対立から生 まれる一つの表出である。そしてそれは、人間が本来持っている生への欲望や活力とも言える。しかし、既成宗教は理性の名の下に、生命の証とも言えるエネルギーを悪とし、そ れを否定しようとする。そうした宗教が規定し、人々が信じている善悪の「善」は「偽善」 ではないかとブレイクは感じ取っているのだ。

 

そのため、ブレイクは抑圧的な理性に 押さえつけられた善よりも、エネルギー溢れる悪を讃えることで、一般的な倫理的価値観を逆転させようとしていたと考えられる。

 

ブレイクの詩にはContrary対立、エネルギー論、宗教観からくる詩的表現がみられるのが特徴でもある。

 

 

 

 

対立 

対立するもの同士は等しく真実であり互いにとって不可欠。そして永遠の歓びであるエネルギーは物事の進歩を促す。

理性が勢力を増すと欲望はそのエネルギーを失いただの欲望の影になってしまう、と。ブレイクは衝動のままの行為が美徳とするエネルギーの人としてのキリストを描いており、ブレイクの対立概念に合わせるのならキリストは悪の側である。

 

ブレイクが抱いていたフランス革命への期待と落胆の表れか、これまでの進歩を促す対立や革命的なエネルギー賛美には時代背景がある。しかし、結局革命がもたらしたのは恐怖政治やギロチンであり、そうした革命への落胆からエネルギーを推し進めることへの修正が行われた。

 

さらに、天国と地獄を上下として描くのではなく、左右に併置しており、対立するものに優劣はつけていない。ブレイクが規定する善悪には優劣がない。善も悪も人間存在にとって互いに必要なものであり、2つの力が混ざり合うことでエネルギーが生まれ、進歩が促される。宗教のように善だけをよしとするのは偽善であり、また開くだけに偏るとミルトンのサタンとユリゼンのように自己中心的な抑圧者となる。

 

そのため、ミルトンでは自己と自己の中の他人の対立となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

象徴人物

 

内省−自分を見るという行為をした時すでに、見る自分と見られる自分の二つに分かれている。これをやっていくと人間の中の論証する力、誤った肉体、一つの外被、そして自我というものがある。

 

ブレイクの詩には一人の人格に対して流出・エマネーションと呼ばれる女性的分身と亡霊・スペクターと呼ばれるもう一人の自分、さらに影や肉体が別々の動きをしていたりエマネーションのスペクターや、自分と分身との子どもな どが現れたりもする。この作品でも、主人公のミルトン自身が分裂や統合を繰り返し、複雑に話が進んで行く。

 

The Negation must be destroyd to redeem the Contraries The Negation is the Spectre; the Reasoning Power in Man This is a false Body: an Incrustation over my Immortal Spirit; a Selfhood, which must be put off & annihilated alway (E142)

 

ここで言う「破壊」とは、「自己滅却(self-annihilation)」のことを指している。その目的は、 「自己吟味によって自分の精神の顔を洗い清めるため(E 142)」である。顔は五つの感覚 器官を持つ場所でもあることから、この言葉は、『天国と地獄の結婚』での有名な詩句を思 い起こさせる。

 

詩人にとって、無限を見る力でもある想像力は絶対的なものである。特にブレイクは想像力を重要視しており、「想像力は神(イエス)自身(E 273)」とまで言っている。誤った自我によって知覚を鈍らされていると、ブレイクが目指す永遠界への回復は得られない。『ミルトン』でのサタンは主人公ミルトンのスペクターとして描かれる。ミルトンは自らその事を次のように自覚する。

 

 

 

… Urizen stoop’d down And took up water from the river Jordan: pouring on To Miltons brain the icy fluid from his broad cold palm. But Milton took of the red clay of Succoth … Creating new flesh on the Demon cold, and building him, As with new clay a Human form… (E 112)

 

このようにミルトンとユリゼンの戦いは、「敵対者に対し、一方に生を、他方に死を与える (E 113)」行為であり、「自己滅却」が創造/芸術行為の一つとして描かれている。

 

自分の中に悪しきものであるサタン的側面に気がついたミルトンは、そうしたスペクター 的自我を消滅させるために地上へと降りてくるが、彼の下降は下界へと降りることである と同時に、自己の中への下降でもある。  

 

しかし、『ミルトン』におけるサタンは『天国と地獄の結婚』の悪魔のようにシンプルで はない。サタンは「不透明(opake [opaque])」であり変化可能な「状態(state)」でもある。

また、それ自体に対立物を内包しているかのような、二面性を持っている。それはまず、 サタンの兄弟パラマブロン(Palamabron)によって明らかにされる。

 

Seeming a brother, being tyrant, even thinking himself a brother While he is murdering the just. (E 100)

 

サタン自身が良かれと思って見せた兄弟愛は、相手にとっては暴君の姿であった。このサ タンの姿は、独善的なモラルを強いる「ユリゼン(Urizen)」としての本性を現し、抑圧的 な唯一神として君臨するに至る。このユリゼン的サタンは、途中、アルノン川の岸辺でミルトンによって「自己滅却」される が、その方法が実に興味深い。サタンは冷たい川の水をミルトンの脳に注ぐという、洗礼 を与えるかのような行為をする。それに対し、ミルトンはスコテの赤い土でユリゼンに新たな肉体を形作っている。

 

こうしてミルトンによって新たな「輝く」肉体を与えられたユリゼンの中では「真の人間 が力と威厳に満ちて歩き出す(E 114)」。この「暗くされていた」悪魔を本来の「輝く」悪魔へと作りかえる行為は、Fred Parker が指摘するように、悪魔を描写するという危険な タスクを担う芸術家にとっては、素晴らしい着想点だ。

 

 

 

 

 

 

 

・創造性でも人は淘汰されつつあるのか?

 

 

AIの方が創造でも勝ってしまうって、AIはこれまでコンテストで優勝してきた作品の傾向をデータ分析して突いてきてるからかな?人が選んだものが必ずしも良いものではないから、(それこそブレイクなんか理解出来ないでしょう)本当にいいものが益々埋もれちゃう気がする。

人気なものというのは万人が理解できるレベルのものと表層的なものが多い。

 

本質的なもの、本当のお宝は万人に見つかるのなんて100年後とかなのね。だから1000年でも2000年でも遡って自分で宝を見つける。人がどう評価するかはいっさいあてにはならない。自分自身の評価基準で探し、更新していく。

 

 

 

 

「視る_視られる」

ラカンの言う「鏡像段階」とは生後6ヶ月以降の幼児が鏡の中に(つまり自己の外部にゲシュタルトとして)自己の姿を認め、その像を通して自己を認識してゆくプロセスである。

 

いまだに肉体機能的・精神活動的にも一個の人間として統合的存在となっていない幼児は、鏡像の中にはじめて自己の統一的イメージを獲得する。この意味で幼児(人間)にとって鏡は自己認知のために必須のものなのであるが、同時にこの段階の幼児は母親と最も密接な関係を持っている時期であり、したがって幼児は母の中に、もっと具体的に言えば母の目という鏡の中に、自己の理想的な像(イマーゴ)を捉えることになる。

 

トマスハリス原作のレッド・ドラゴンの主人公ダラハイドの第一の不幸は口蓋裂を持って生まれたことである。その醜さから、生まれてすぐ母親に捨てられてしまう。だからダラハイドは醜い自分の姿を鏡の中に正視することができず、母の眼の中にそれを視ることも叶わなかった。映画の中では、ダラハイドは自宅の鏡も全て割っている。

 

レクター博士によれば、醜さを自覚したダラハイドは、その姿を鏡の中に認めることができない。彼にとって鏡は、理想的自己イメージを映すものではなく、むしろ母を失う原因を作った自己の醜さを写し出すものでしかなかったのだ。叩き割られた鏡の意味がここにある。

 

 

 

しかしながら、母子が展開する双数的関係は、けっして安定的で幸福な関係に終わりはしないということも挙げておこう。

不完全な肉塊に過ぎない自己と、すでに全体性を獲得している鏡像(外化された自己)とのズレ、それ以上に互いの目の中にそれぞれの理想像を見出そうとする母子の闘いは激しくなる。

 

ダラハイドは彼の理想を先取したかのような夫婦であるジャコビ家を襲う。これが他者を襲うように見えて、実は「自我の理想」に対する「自罰」であったように、ダラハイドの殺人もまた自罰的な色彩を帯びている。この点を浅田彰はこういった。

 

「主体が他者を通じて自己確認を目指すとき、他者もその主体を通じて自己確認を目指している。どちらも相手を自己認識の手段にしようとして、言い換えれば、自らを主_相手を奴、と化そうとしてあくなき闘争を繰り広げ、そして、勝ったと思った瞬間、自らの全体性が相手に騙取されていることを見出すのである」

 

 

 

つまり母と子は、「主_奴」のいちをめぐって互いに理想的イマーゴを先取しようとして激しく争うあうわけだが、実は、ダラハイドは母の子捨てのためにすでにこの闘いに敗れた存在であった。

 

「視る_視られる」という関係は、単に相手の像を捉えているということではなく、相互の像を捉えて動く相互の情動の交感でもあるわけだ。

ところが、その相手の眼が鏡になるということは、この情動の交感が一方的に遮断されてしまうことを意味する。

確かに私の像は相手の眼に映っはいる。しかし、そこに映し出された私の像は、相手の認知を通過しない私の像であり、そこには相手の情動がいささかも介在しない。

 

相手の眼の中に映し出された私の像は、ただむなしく私が覗き込んだことしか意味しない私の像なのだ。

 

言い換えればそれは、私を見つめるような像でしかない。自己イメージは他者を媒介とせずに、自己の中で完結する。

だから、ここから可能な自己像は、自己の欲望にしたがって果てしなく増殖する自己イメージなのである。

 

 

 

たとえば、クーリーの「鏡に映った自己」なども「他者の目に写った私」というときの「映った」とは、相手の情動や評価の存在を前提にしていた。だからこそ、相手の情動や評価を私が認知することによって、私は他者を通して「私(の言動の意義やパーソナリティなど)を知る」ことが可能になるわけだ。

 

同時にこのことは、私であることの意味づけの中に他者の存在が介入してくることを意味している。しかし、もし相手の眼がこの惨殺死体のように鏡だとしたら、私はその時、いかにして私を認知することができるのか。いや、じつはここに、自我の現代的特徴が現れているとさえ思えてくる。

 

 

 

現代社会に生きている私たちの自己認識は、まさに鏡のような他者の眼によって(突き詰めれば、私の眼によって)形成された私、でしかないのかもしれない。私を繋ぎ止める他者、という契機を失った私、そして、果てしなく自己増殖する私のイメージ。

そしてこの時、狂気が忍びこむ。

 

ダラハイドは現実の母を欠落していたゆえに、母との視線の交流を想像できないまま、つまり母の視線の内容を想定できないままに、ただ母の眼に自己の像を結ぶことだけに囚われている。しかし、この囚われによってかえって彼は、他者(母)の自由で身勝手な情動などが介入する余地のない視線を手に入れたのだ。いまや母は主の資格を争い合うものではない。こうしてダラハイドは自己増殖する果てしない欲動(理想的イマーゴへの渇望)を挿入された鏡の眼の中に視ることとなった。

 

しかし、総数的関係においては、欲動はけっして満足させられない。はてしない欲動の昇進だけがそこにはある。

その上、ダラハイドの場合は、もともと欠落を埋めるための偽装された関係だったのだから、その想像界はますます狂気へと転換してゆく。

 

 

優雅してて草

 

 

羊たちの沈黙レクター博士が言っていた。「サナギの持つ重要な意味は変身だ。ビリーは自分も変身したいと思っている。(連続する犯行を)彼は一連の脱皮だと考えている。シリアルキラーたちは、「美しいイマーゴ」を求めて「変身」と「脱皮」を繰り返すというわけだ。「他者の眼」の前で彼らは、自分が今や「美しいイマーゴ」であること、もはや、きたならしい芋虫ではないことを披露しなければならない。彼らは、その過去を全く逆転した仕方で生き返そうとする。」

 

(この下手くそなフルート演奏に顔をしかめるとこが好きすぎる😹)

 

子供の頃の体験に合った役割を逆転させようとする。そうすることで殺人者は、魔法のように自分の過去の受難を帳消しにし、自分の力とアイデンティティを回復できるのだ。そして、芋虫のような汚らしい「過去の受難」から「美しいイマーゴ」への「変身」の重要な承認になるのが、「観客」すなわち、「他者の眼である」。この点にシリアルキラーたちのもう一つの悲劇がある。というのは、彼らの「生き返し」がこの抽象化された「他者」の判断に委ねられているからである。だからこそ彼らは、この「他者」を圧倒的に畏怖させる犯罪を売り返さなければならない。

 

 

 

トラウマ

「醜男」というトラウマを抱えているために、自己の像に敏感になったダラハイドは、それだけ他者が抱く鏡像、すなわち「騙取されること」に我慢がならない。それは「私」に執着する現代人、言い換えれば、「疎外されること」に敏感に反応する現代人に共通する、神経症的病いなのかもしれない。

しかし、フロイトユングのズレにもみられるように、トラウマが過去に存在する「事実」なのか、それとも現在を生きようとする人間がその不幸を正当化するために「発明したもの」であるのかは不明である。

にもかかわらず、トラウマに執着するのは現在の自己をいかにして捉えるかという、自己に対する過剰なとらわれがあるからであろう。そのとらわれが、「自己の疎外」や「騙取される自己」への過剰な反応をうむ。さらには、無限ループのように拡大する狂気と「力」への憧れを生む。

だとすれば、このトラウマの問題に触れないわけにはいかないのだが、ここではふたつの点だけについて指摘しておきたい。それはトラウマを生み出すのは単に他者だけなのかという問題と、そもそも「疎外」や「騙取」なくして主体は主体となりうるのかという問題である。自己にとらわれるダラハイドは、そのとらわれるという事実によってもまた自己から遠ざかってしまったのだった。つまり、「醜男」の問題は、単に「醜男」としての自己を引き受けてしまい、そのことにダラハイドは苦悩したわけだ。

 

とすると、これまでの自_他の関係の中で論じてきた「私」と「自己」の問題にはもう一つ別の次元を設定する必要が出てくる。

それは、言い換えれば「自己」は「私」によってもまた、形成されるということ。で、自_自の関係の次元の必要である。主体は、主体の内部で他ならぬ主体をめぐってみずからと争い合う。主体の中でも、主と奴の関係の闘いが展開されるわけだ。

つまり自_他関係における「私」と「自己」の相克の中で緩和され、修正され、あるいは、隠蔽され、乗り越えられるものであり、その意味でも人間にとって鏡像段階の意義は大きい。

の、だが、現代社会人は、この自_他関係というモメントをますます失いかけているのかもしれない。

このモメントが希薄化するとき、「主」と「奴」をめぐる闘いは主体の内部で果てしなく繰り広げられるだろう。

 

そして二つ目はこうだ。

「自己」とはそもそも「疎外され」「騙取され」てはじめて形成されるものではなかったか。その「疎外」と「騙取」を引き受けざるを得ないところに、人間の悲劇と、またダイナミズムもある。

 

ダラハイドの悲劇を目撃しながら思うことは、この主体とは分裂した自己内部での対抗と緊張の関係そのものであるという認識の欠如である。だが、それはダラハイドだけの欠落だろうか。トラウマという言葉に敏感に反応し、それを好んで引き受けようとする現代人もまた、この欠落を生きているのかもしれない。狂気と法悦のあいだで揺れ動くダラハイドの悲劇は、現代を生きる我々の姿と重なっている。