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持続可能性よりも共有可能性

 

 

 

「知的になにを理解しても、それが喜びだってことを経験してない人間に何を言っても響かないしまったく無駄なんです」

 

「人と本当に接することがないのに、人にちょっかいを出すというふざけた状況。

同じ世界に入るという体験なしに人と本当に関わり合えるのか。こんな複雑な生き物同士が共鳴せずに関われるのか。その方法がまずは同じ世界に入ることなのに」

 

「自然はいいですよ本当に簡単に死ねるところなんで、同じ共通ラインに立てます」

 

「passionは受苦、パトスは上から降ってくるもので享受というのは受苦としての情愛であり、死ぬかもしれないというのは喜びなんだよ」

 

「尊厳なき存在、入れ替え可能な自分じゃなくてもいい世界線で人はどれだけ満足して生きられるだろうね。」

 

「自然とフュージョンする、仲間と同じ世界に入る、突き動かされる享楽を知っている者と、喜びを知らない者。ここで問題が起きる。喜びを知らない者は、喜びを知っている者を見つけると、嫉妬して途端に打ち壊しに走る。

 

文化的劣等感に満ちた人間芸術なんて無用なんだ!とかいう瑣末の悪い連中をどうしていくか。こいつらをエンロールできる可能性はゼロ。だからこいつらを取り除いて世論形成するしかないというふうにしか、考えようがない。

 

ここでキーワードになるのは子供。子供は基本的にはギリシャ心身の性能と同じものを持っているんだけど…価値に完徹する構えを持たないように躾けられてきた。そうしないと、クラスで浮くよ、お前空気読めねえじゃんとか。キャラを演じなきゃいけないというクズな社会空間に適応して育ってきたら、劣化していくのは当たり前なんですよね。しかし外側で何が起こってるのかは明白なのでその外側を想像することは簡単にできる。」

 

「失敗は成功のもとで恵まれていることは堕落の始まり。ニーチェ的にいえば悲劇の共有が価値の出発点なので、悲劇を共有して我々はこれからツケを払っていくんだろう」

 

「去勢がないんです。価値の喪失というスタートを切れなかった」

 

「自分が本当に愛せるものにどれだけ向き合っていけるかなんじゃないかとおもいます。」

 

ハーメルンの笛吹きみたいに綺麗な音色でだまして連れてきて、「おまえたちの生き方は根本的に間違ってるんだ」ってパチーンと引っ叩いてくるアートがいいと思う。」

 

「ロマン派はそうするべきだよ。社会の中に閉ざされることが当たり前だと思ってきた人間たちに社会の外側に開かれることによって今までと同じ生き方はできなくなる体験をさせる。」

 

「騙して連れてきて衝撃を与えて今までと同じ生き方はできなくさせるっていう。それを目指していけ」

 

 

 

「ハピネスよりウェルビーイング規範的な価値のあるよき人生不幸や不快はあって当然で不幸や不快がまったくない人間の幸せな実感ってあり得るでしょうか

 

一時期言われてたハピネスよりウェルビーイングは、規範的な価値のあるよき人生不幸や不快はあって当然。不幸や不快がまったくない人間の幸せな実感ってあり得るでしょうか。あり得ないよね、それは人間が記憶の動物だからですよねって概念。快不快で性愛や自然を決めてる時点で終わりだ。」

 

 

 

 

 

多分わかりやすい言葉で傷付けようとしているのは彼のアプローチだ。おまえら、本当にクズだなクズ、バカ、即死しろ

 

このままだとクズなんだなというのを自覚させてハッとさせて、じゃあどうすれば…?と変えるための布石を打っている。わかりやすい言葉を選ぶのはそれこそバカにも響かせる為だろう。バカは掃き捨てて、知識階級やある程度知的な層にのみアプローチした方が話が通じるし楽だろうに。本当に優しい。

傷を付けて、今までとは違う生き方をさせる。去勢させる。価値を喪失させることでスタートを切らせる。今までの社会的な、空気を読んで自分を殺すというものの外に出させる。アートはこれをやるべきでものなので、不快で、傷ついて、否定された気になって、混乱して、でも頭から離れない。素晴らしいね。

 

 

 

 

三島由紀夫のいうように、日本人の空っぽな、価値完徹の意志が持てないのはなぜだろうと掘っていくと、自然が豊かだったからご利益信仰以上のものを持たなかったというところがあり→島国ゆえ外国のように絶えず移住に苛まれたりしなかった→陸続きは自分達に起こる悲劇はどうして起こるんだろうって理解する方向に変わっていった


という流れがあって、イスラムも生け贄宗教だったし、生け贄を倍にするんで!とかも散々やったが全然うまくいかず酷いことばかり起こった→生け贄をこんなにあげてるのに全然聞いてくれない!→それ自体が神を冒涜してるのでは?相対である人間が絶対である神に取引をしようなど烏滸がましいのではと...

そこから宗教の意味も変わっていく。ご利益信仰...つまり生け贄信仰含めた冒涜から自分達の悲劇を理解するための意味の追求へ。なぜ不幸なのかを理解する為の一神教が文明社会を理解する為のフォーマットになっていった

自然信仰から出てきたのは生態学的平等主義。なぜ人間だけを特別視するんだ?理由を示せよ。世界は生態学的全体性を見渡せる者は人間だけを特別視しない。人道的、非人道的なんてものさしなんか、くだらない。この発想はある観点から批判はできるがこの思想を進化させたものをディープエコロジーという。

人間じゃなくてもよくね?ってことが増えてきているいま、なんとなくこっちの思想に偏る人が増えてきそうだなとは思う。はたして理性はブレーキだろうか。ナチスは非常に理性的だった。理性以外のブレーキはなにか。感情の働きだ。暴走した理性は感情に裏打ちされた意志が止める。でも感情の働きは劣化している。それは予言されていたね

存在論の哲学と有限性の哲学が記述するような、ある種、知識化を支える技術化を支える産業化を支える...という生態学的な変換を辿っていくとほとんどの文明は人類と同じようなものを辿る。なので文明は非常に寿命が短いものだと考えられる。誰かのせいにして終わるような問題ではない。

テックを頼れば人間を頼らなくてもいいよね!という、これは間接化だけど、この間接化によって我々が何百何千年と培ってきた生活形式を失いそれによって育まれてきた感情の働きも失いつつあり、

こういう人類史的な流れを見てほしいと

説明しなければもう理解できないような遠い関係性のなかで、いかに価値を維持するのか。無理したような話になってしまっている。学と芸術は元々似ていて、外の世界に連れ出す。外に出たらなかなか平穏無事に元には戻れない。不安な気持ちになるでしょ、ざまあみろ

映画や芸術ってのは、人によってどうとでも受け取り方があるどうとでも見ることができるってのんきなこと言う人がいますがそれは嘘です。芸術には、間違った享受の仕方と正しい享受の仕方ってのが明白に存在します。「どう受け取ってもいいんですよ」そんな生ぬるいことをいう教員や表現者自身が、いかに観客を劣化させてきたか。

わからないものに苦しめられている。わからないからそれを粉飾決済しようとして刺激やエンターテイメントによって忘れようとしている。けれど、根本的な不全感というのは埋め合わせられない。みんな神経症的になっていく。どうしたら自分の体内時計を合わせられるだろうか

自然生態系と自分を取り巻く他者共同体とのスケールを合わせていくことは重要だよ。

 

政府がなんとかしてくれればいいじゃないか!なんて、できるわけないじゃん頭悪いんだから。自分達に不利益になるような法案は通すわけがないんだよ。しかもそれは加速するね

だから崩壊を加速してくださいね、と。

どうしてそんな生態学的思想をするのだろうか?

まず、ご都合主義がきらいなんだ。☜私もそうだ。誰かの勝手なご都合主義には吐き気がするし、どんなにそれっぽいこと言われようとそれってお前の勝手じゃね?が抜けないので納得出来ず、騙されようもない。ある意味私のような根本的に理解し納得しないと常に疑いが生じてしまうタイプは、もう根本からやるしかない。

生態学的思考は、ネットワークの全体宇宙全体が含まれる。
我々は少なくとも6回の大絶滅の末、今の地球生命圏を持っている。6回の大絶滅のうち大半は全球凍結、つまり寒冷化によって起こっている。寒冷化が起こったのは超新星爆発が大量に起こってその結果ガンマ線が降り注いで雲核が形成されたから。そういう宇宙規模に前提付けれる関係の中で今我々がいるってことの全体を見るのが生態学的思考です。この思考からすると、大絶滅って悪いことなの?ーこれがナチス的思考に繋がるわけです。では、これに抗うためには、なにが必要なの?思考として価値観としてー それを徹底して考えるって営みが必要なんです。それをやった人はあまりいないんですよ。

J・ベアード・キャリコットはそれをやった一人です。何も考えないで、ecologyってのは自然が大切!ってことでしょ。お前何年生きてきてんだよ、どんだけ勉強する時間あったんだよ。だってエコロジーとかいうなら、エコロジー"ルーツ"って調べないの?調べるべきだよ。


こうした生態学的思考で考えると、破滅のなかから希望は生まれるんだ。

よいものはわるいものからうまれ
わるいものはよいものからうまれている

多くの不全感をなくすためにも、自分はどこにいて誰と関わっていてというのを思い出す。自然体験はそれを思い出させてくれる、世界との関係性というものに自分を再び位置づけ直す。