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曼荼羅

私は心理学や脳科学、哲学や文学あたりのもんが好きなので、どうにかこうにかそこら辺から世の中、世界、人間を理解していける部分は理解していこうと思ってるのだけど、涼しい季節になると、香り物が恋しくなる。薔薇やジャスミンの香り、ラベンダーの香り、ひのき、竹、桃の香り。

そういうものを楽しんでいると、なんとなく叙情的な気分になりコーヒーよりも、お茶が飲みたくなってくる。緑茶などの日本茶も、プーアール茶やらジャスミン茶、白茶、甘露茶など種類の豊富な中国茶もどちらもよい。さっぱりしていて、コーヒーよりも重たくなく、カフェインは入ってるけど少ないので、よりリラックスできる。お茶にはお茶の、風情がある。

香りとお茶を楽しんでると、普段は建物からファッションから作品からなにからなにまで西洋文化が好みな私でさえも、だんだん和のものを楽しみたくなってきます。自然の美しさ、花鳥風月に目を向けて、お茶とお花と香りと、詩や歌、見目麗しいこの世の全てを堪能したいという欲張りな気持ちが膨れてくる。

なので、色んなことを学んで理解し、自分の中に溶け込ませ、血にして肉にして、身に付けて、この世を楽しむための武器、そして知恵にしていきたい。

絶賛、和の気分の私。この気分の赴くままに今は和のことを学ぼう。そう思って目を付けたのが曼荼羅でございます。

宗教というと、いいイメージはないだろうしわたしもなし。特にどこかに所属することもなければ信仰もありません。だけど、知識として知っておきたい。知らないから変なイメージを持つし、知らないと漬け込まれるし、知らないことというのは、それ自体が自分の恐怖心や懐疑心を煽る。だから、勉強する。これが私のスタンスということは変わりません。わからんことは学んでわかればよろしい。ただそれだけです。ということで、今回は曼荼羅について。曼荼羅って言葉は聞いたことあるけど、よくは知らないので、どういうものなのか、少しでも理解が深めるため、調べてみることに。

宇宙そのものを神格化したものが大日如来だそう。

真言宗にはこの大日如来が本山として祀られている。

宇宙の中に私たちがいる。そして私たちの中にも宇宙がある。そこで登場するのが空。

空とは宇宙が一つであるということ。存在と非存在が同時に存在する状態、(量子論がわかりやすいですね。科学の知識は、このわっかりにくい教えの手助けになります)それが空であり、宇宙そのものであると。有ると無いがコインの裏表のようにひとつになっている。

仏の世界では悟りほ世界の胎蔵界と知恵の世界の金剛界の二つが揃うことで完成するようです。そのため、胎蔵界曼荼羅と、金剛界曼荼羅は二つセットで挙げられることが多いのです。

大日如来は宇宙を神格化したものなので、つまるところ宇宙というひとつの生命、それを構成するひとつの細胞が私達。つまり私もあなたも宇宙、って話になります。頭を抽象度高い地点のギアに設定して考えないとまじでついていけません。合わせ鏡のような無限構造♾にいる。そして、金剛界曼荼羅は円になってる胎蔵界曼荼羅とは違って、ピラミッド型になっています。

上に行けば行くほど、統合されてひとつになっている状態、下は分離です。エントロピーと似てるなと思います。熱はいずれ冷めるもの。冷めていくとだんだんエントロピーが増大していく。この原理に沿うかのように、人間関係、人と人との繋がりも熱いうちは気持ちを通わせられていたり、誤解がなくて相手を信じれる、つまりそんな状態で(ひとつでいる)けど、冷めてくると、すれ違い、誤解、気持ちが離れたり冷めたりして、別れたりする。つまり分離、ですね。人なら離縁、というほうが正しいかな。

ちなみに金剛界の金剛とは、ダイヤモンドのことです。

ピラミッド型の頂点というのは、統合の状態、一つの状態で、つまり、分かり合えない他者というものがないのです。敵も味方もない世界。超越しきった者だけがたどり着ける状態。輪廻転生の末に生まれ変わって最終的には大日如来に生まれ変わるんだよってことらしいです。

上はひとつだが、下に行けばいくほど、底辺にいくほど分離が広まり、この広がりは無限にどこまでもバラバラに離れていき、終わりはありません。

ブッダが持ち込んだ考え方にカルマというものがあります。カルマは良いことをすれば良いことが返ってくる、悪いことすれば悪いことが返ってくる。これは、神経的にも正しいです。神経は、楽観と悲観で回路が分かれています。この回路は、使えば使うほど道が広がるように太くなります。降り積もった雪の道を歩き出すとそこに足跡が残り、行ったり来たりすれば足跡が増えていずれ道となる。原理はこれと同じく、使えば使うほど、その回路は太くなり、使いやすくなるそうです。いつも悲観的に考えれば、悲観的にものを見やすくなり、楽観的に考える癖がついている人は楽観的に考えやすくなります。

宇宙の真理は、人間に通じてるなぁと感じるわけです。だから興味深いのですけどね。

昔の人は、宇宙というものをそもそも知りませんでしたし、宙の上の映像も今みたいに衛星などを使って見ることはできませんでした。もちろんスマホだってないですし、文字の読み書きすらできない人がほとんど。階級制度の強いインドでは殆どの方が知識を得るチャンスがそもそも少なかったはずです。

だけど、ブッダのおかげで悟りを開いた人はたくさんいました。だから悟り開いた弟子が書物を残し、それが今も残ってこうして教えたして受け継がれている。この流れを理解すると、すげえもんだな、と思わざるを得ません。人間の普遍的な真理、そして宇宙の真理を突いてるものしか何千年の時を変えることは不可能だと思うからです。まあ、カルマという考え方は、お偉いさん方には不都合なので隠されたりした時代もあった様ですけど🤔これは全ての歴史に当てはまるのではないでしょうか。歴史は勝者によって都合よく書き換えられる。全ての歴史は、現代史であるという言葉もあります。実際に、現代を生きている私達でさえ、今この世で起きている本当に正しいことなんてわかりません。フェイク動画なんかもかなり精密ですし、情報方で目まぐるしいです。だから、誰かが残した、ほんとうの真実、本当の、声。これが紛れてるものの中から探し出すという密やかな時空を超えた探検が私はとても好きです。

秘密の声は、思わぬところにあります。個人の書いた書物なんかは穴場ですね。公的な"教え"とか教科書系は、いじられてるなーって印象。(勝手な印象ですが)

そもそも、密教というのは、秘密の教えと書きます。これは悟りの本当の真髄を正しく伝えるために、隠されたりしたという背景もあり、その時代は口伝で伝えられたそうです。弾圧されないために。

マインドフルネスなんかが流行り出したピークが2019年辺りだったでしょうか。アメリカの大学にインドの修行僧だかを連れてきた脳波を計測したら、通常の時と脳波が違っていて、脳の構造自体が変わるということまでわかり、実際に効果があるということが証明されたのち、あらゆる企業家が取り入れ出しました。なんかビジネスマンがやり始めたなーって感じでしたが。とある坊さんは、あいつらはネズミが歯車をもっと効率よく駆け回るために瞑想しているようだと。それでは意味がないというのに...ズレとるわ...と嘆いていました。

日本になぜキリスト教が広まらなかったのか?という話でこんなのがあります。

ご存知のあのハゲの宣教師ザビエルがキリスト教を布教しに来たころ。日本にはキリスト教はさして広まっていませんでした。そこで、広めてこようとする宣教師に、農民が訪ねます。「そんなにありがたい教えがあるなら、どうして今まで日本に入ってこなかったのか?」と。自分達はその教えを聞いたら天国に行けるということだけど、その教えを知らなかった我々の先祖はどうなるのか?もしや今頃、地獄で苦しんでいるのか?」と。

キリスト教では、洗礼を受ければ天国に行けるが、受けていない先祖は地獄です。だけどあなたは救われますよと言ったそう。(そう答えるほかないから)

そうすると、「そんなのあんまりじゃないか。あなたの信じてる神様ってのは、随分無慈悲なんだな。全能の神様っていうんなら、先祖くらい、助けてくれたっていいじゃないか!」うわぁぁん泣 と。

ザビエル氏も返す言葉がなかったとのことです。

そもそも、信じたら救われるとか信じなかったらだめなんて、都合いいこと、まさにしょうもない人間が考えたもの以外のなんなのかという話ですがね。

宗教というのは、フィクションであり、誰かが書いたものです。これはすでに解明されていて、普通にフィクション、と書いてあります。科学のない時代、国の教えとしてこんな物が広まっていた時代もありましたが、今では皆無....のはずなのに、意外と日本以外の国ではまだまだ根強いものです。でも「罪なきものまず石を投げ打て」とかかなりポイント突いてることもあります。そんな人はいないと知ってイエスが放った含蓄ある言葉です。一概に単なるフィクションだ、インチキだ、というわけでもなく。中身を知ってないとジャッジもなにもできないのでまずは学んでみることがなによりも大切です。しかも海外にいくのであれば、どこの国に行くのかにもよりますが、行く先の国のことはある程度下調べしなければなりません。物価、法律、宗教、言語、その国独自の決まり。たとえば親指をグッと立てる仕草があり、日本ではgoodの意味で使われますが、海外ではダメなんですよね。知らず知らずにルールを破ってしまって、危険な目に遭うことがない様に、知っておかなければいけないことは結構あります。

話を戻すと、当時の日本の農民は言われたことをそのまま鵜呑みにするのではなく、ソクラテスさながら、問答をしていたわけですね。疑問を持つこと、なぜそうなのか?それは本当か?その根拠はなにか?面倒なことですが、疑問を持つこと、疑問を持ったら聞くこと、そして書かれたものは真摯に答えること。そのやりとりがないと人は腐りますからね。それ以外にも宣教師たちは後進国に出向いて、自分達の技術力を見せつけ、信じればこの技術を教えてやるなど、つまりエサがあったらしいですが、日本には高度な技術がすでにあったため、その手段が使えなかったとか。(本当かな?アメリカが爆弾作ってた時竹槍もってたのっぺらぼうがうちらだよね?ここら辺は謎)

とにかくその後、ザビエルは、こりゃこいつらは一筋縄ではいかねえ、布教を広めるのはなかなかに苦労するぞという手紙を祖国に出しています。

そのほかにも、全知全能の神が天地万物を作ったのであれば、なぜ悪もあるのか?などと穴だらけのキリスト教のナゾを純粋な疑問で突っついていきました。流石にザビエルも「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された」といって帰国していきました。

ザビエルが来た時代には、日本には誰がいたか。あの秀吉です。裏で日本人の女性や子供などを人身売買だか奴隷貿易だかをしようとしていたとかで、それを知った秀吉が大激怒して、やつらを国外追放したようです。

ここら辺はスペイン、イギリス、中国、だけでなく周りのあらゆる外国がどう動いていたのか、世界の歴史と照らし合わせた上で流れを読まないといけません。でないと、本当に全体図が見えてきません。世界史と日本史は常に同時並行で、その上で宗教のこと、政治、経済、その当時の農民の暮らし、その当時のトップはだれか、有名な人は誰がいたか、芸術や文化人はどんな作品を作っていたのか、どんな作品が人気だったのか、人気だったのはどんな時代背景があったからなのか?ついでにこういうことまで全て繋げたら、ようやく、ほんの少しだけ世界のことがわかります。と言いたいところですが、そんなちっぽけな知識量ではこの世のなんにもわかりません。ありとあらゆる事を学んで、繋げて、それを繰り返し、繰り返し、関係のありそうなもの、なさそうなものも含めたさまざまな分野を学んでようやく点と点が繋がる瞬間を迎えます。これが、おもしろいこと、おもしろいこと。どんな教えも自分の肥やしになるように。過去の先人たちのストーリー、神話、口伝、寓話...寓話なんかは短く、可愛らしい物語で動物がたくさん出てきて子供でもわかりやすいのに、教えが詰まっています。“北風と太陽”のように、強い風で無理やり吹き飛ばすのではなく、太陽でほかほかと照らすことで相手が自ら動くこともあれば、“酸っぱいぶどう”のように、あそこのぶどうが美味しそうだと思って取ろうとしたのに、手が届かなくて、手に入らないとわかると途端に、憎くなって、あんなぶどう別にほしくなかった、どうせ酸っぱくてまずいはずだ、などと思い込むなど。実に人間心理を上手に反映していると思います。自分が思ったことを、相手に投影してしまう、ひっくり返してしまうようなおかしな現象は人間の心理に存在しています。何より、人間の脳は理由を後付けするので、そうなるのも無理はないですが、人生の早い段階でこの矛盾に気付くべきなのでしょう。