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曼荼羅

私は心理学や脳科学、哲学や文学あたりのもんが好きなので、どうにかこうにかそこら辺から世の中、世界、人間を理解していける部分は理解していこうと思ってるのだけど、涼しい季節になると、香り物が恋しくなる。薔薇やジャスミンの香り、ラベンダーの香り、ひのき、竹、桃の香り。

そういうものを楽しんでいると、なんとなく叙情的な気分になりコーヒーよりも、お茶が飲みたくなってくる。緑茶などの日本茶も、プーアール茶やらジャスミン茶、白茶、甘露茶など種類の豊富な中国茶もどちらもよい。さっぱりしていて、コーヒーよりも重たくなく、カフェインは入ってるけど少ないので、よりリラックスできる。お茶にはお茶の、風情がある。

香りとお茶を楽しんでると、普段は建物からファッションから作品からなにからなにまで西洋文化が好みな私でさえも、だんだん和のものを楽しみたくなってきます。自然の美しさ、花鳥風月に目を向けて、お茶とお花と香りと、詩や歌、見目麗しいこの世の全てを堪能したいという欲張りな気持ちが膨れてくる。

なので、色んなことを学んで理解し、自分の中に溶け込ませ、血にして肉にして、身に付けて、この世を楽しむための武器、そして知恵にしていきたい。

絶賛、和の気分の私。この気分の赴くままに今は和のことを学ぼう。そう思って目を付けたのが曼荼羅でございます。

宗教というと、いいイメージはないだろうしわたしもなし。特にどこかに所属することもなければ信仰もありません。だけど、知識として知っておきたい。知らないから変なイメージを持つし、知らないと漬け込まれるし、知らないことというのは、それ自体が自分の恐怖心や懐疑心を煽る。だから、勉強する。これが私のスタンスということは変わりません。わからんことは学んでわかればよろしい。ただそれだけです。ということで、今回は曼荼羅について。曼荼羅って言葉は聞いたことあるけど、よくは知らないので、どういうものなのか、少しでも理解が深めるため、調べてみることに。

宇宙そのものを神格化したものが大日如来だそう。

真言宗にはこの大日如来が本山として祀られている。

宇宙の中に私たちがいる。そして私たちの中にも宇宙がある。そこで登場するのが空。

空とは宇宙が一つであるということ。存在と非存在が同時に存在する状態、(量子論がわかりやすいですね。科学の知識は、このわっかりにくい教えの手助けになります)それが空であり、宇宙そのものであると。有ると無いがコインの裏表のようにひとつになっている。

仏の世界では悟りほ世界の胎蔵界と知恵の世界の金剛界の二つが揃うことで完成するようです。そのため、胎蔵界曼荼羅と、金剛界曼荼羅は二つセットで挙げられることが多いのです。

大日如来は宇宙を神格化したものなので、つまるところ宇宙というひとつの生命、それを構成するひとつの細胞が私達。つまり私もあなたも宇宙、って話になります。頭を抽象度高い地点のギアに設定して考えないとまじでついていけません。合わせ鏡のような無限構造♾にいる。そして、金剛界曼荼羅は円になってる胎蔵界曼荼羅とは違って、ピラミッド型になっています。

上に行けば行くほど、統合されてひとつになっている状態、下は分離です。エントロピーと似てるなと思います。熱はいずれ冷めるもの。冷めていくとだんだんエントロピーが増大していく。この原理に沿うかのように、人間関係、人と人との繋がりも熱いうちは気持ちを通わせられていたり、誤解がなくて相手を信じれる、つまりそんな状態で(ひとつでいる)けど、冷めてくると、すれ違い、誤解、気持ちが離れたり冷めたりして、別れたりする。つまり分離、ですね。人なら離縁、というほうが正しいかな。

ちなみに金剛界の金剛とは、ダイヤモンドのことです。

ピラミッド型の頂点というのは、統合の状態、一つの状態で、つまり、分かり合えない他者というものがないのです。敵も味方もない世界。超越しきった者だけがたどり着ける状態。輪廻転生の末に生まれ変わって最終的には大日如来に生まれ変わるんだよってことらしいです。

上はひとつだが、下に行けばいくほど、底辺にいくほど分離が広まり、この広がりは無限にどこまでもバラバラに離れていき、終わりはありません。

ブッダが持ち込んだ考え方にカルマというものがあります。カルマは良いことをすれば良いことが返ってくる、悪いことすれば悪いことが返ってくる。これは、神経的にも正しいです。神経は、楽観と悲観で回路が分かれています。この回路は、使えば使うほど道が広がるように太くなります。降り積もった雪の道を歩き出すとそこに足跡が残り、行ったり来たりすれば足跡が増えていずれ道となる。原理はこれと同じく、使えば使うほど、その回路は太くなり、使いやすくなるそうです。いつも悲観的に考えれば、悲観的にものを見やすくなり、楽観的に考える癖がついている人は楽観的に考えやすくなります。

宇宙の真理は、人間に通じてるなぁと感じるわけです。だから興味深いのですけどね。

昔の人は、宇宙というものをそもそも知りませんでしたし、宙の上の映像も今みたいに衛星などを使って見ることはできませんでした。もちろんスマホだってないですし、文字の読み書きすらできない人がほとんど。階級制度の強いインドでは殆どの方が知識を得るチャンスがそもそも少なかったはずです。

だけど、ブッダのおかげで悟りを開いた人はたくさんいました。だから悟り開いた弟子が書物を残し、それが今も残ってこうして教えたして受け継がれている。この流れを理解すると、すげえもんだな、と思わざるを得ません。人間の普遍的な真理、そして宇宙の真理を突いてるものしか何千年の時を変えることは不可能だと思うからです。まあ、カルマという考え方は、お偉いさん方には不都合なので隠されたりした時代もあった様ですけど🤔これは全ての歴史に当てはまるのではないでしょうか。歴史は勝者によって都合よく書き換えられる。全ての歴史は、現代史であるという言葉もあります。実際に、現代を生きている私達でさえ、今この世で起きている本当に正しいことなんてわかりません。フェイク動画なんかもかなり精密ですし、情報方で目まぐるしいです。だから、誰かが残した、ほんとうの真実、本当の、声。これが紛れてるものの中から探し出すという密やかな時空を超えた探検が私はとても好きです。

秘密の声は、思わぬところにあります。個人の書いた書物なんかは穴場ですね。公的な"教え"とか教科書系は、いじられてるなーって印象。(勝手な印象ですが)

そもそも、密教というのは、秘密の教えと書きます。これは悟りの本当の真髄を正しく伝えるために、隠されたりしたという背景もあり、その時代は口伝で伝えられたそうです。弾圧されないために。

マインドフルネスなんかが流行り出したピークが2019年辺りだったでしょうか。アメリカの大学にインドの修行僧だかを連れてきた脳波を計測したら、通常の時と脳波が違っていて、脳の構造自体が変わるということまでわかり、実際に効果があるということが証明されたのち、あらゆる企業家が取り入れ出しました。なんかビジネスマンがやり始めたなーって感じでしたが。とある坊さんは、あいつらはネズミが歯車をもっと効率よく駆け回るために瞑想しているようだと。それでは意味がないというのに...ズレとるわ...と嘆いていました。

日本になぜキリスト教が広まらなかったのか?という話でこんなのがあります。

ご存知のあのハゲの宣教師ザビエルがキリスト教を布教しに来たころ。日本にはキリスト教はさして広まっていませんでした。そこで、広めてこようとする宣教師に、農民が訪ねます。「そんなにありがたい教えがあるなら、どうして今まで日本に入ってこなかったのか?」と。自分達はその教えを聞いたら天国に行けるということだけど、その教えを知らなかった我々の先祖はどうなるのか?もしや今頃、地獄で苦しんでいるのか?」と。

キリスト教では、洗礼を受ければ天国に行けるが、受けていない先祖は地獄です。だけどあなたは救われますよと言ったそう。(そう答えるほかないから)

そうすると、「そんなのあんまりじゃないか。あなたの信じてる神様ってのは、随分無慈悲なんだな。全能の神様っていうんなら、先祖くらい、助けてくれたっていいじゃないか!」うわぁぁん泣 と。

ザビエル氏も返す言葉がなかったとのことです。

そもそも、信じたら救われるとか信じなかったらだめなんて、都合いいこと、まさにしょうもない人間が考えたもの以外のなんなのかという話ですがね。

宗教というのは、フィクションであり、誰かが書いたものです。これはすでに解明されていて、普通にフィクション、と書いてあります。科学のない時代、国の教えとしてこんな物が広まっていた時代もありましたが、今では皆無....のはずなのに、意外と日本以外の国ではまだまだ根強いものです。でも「罪なきものまず石を投げ打て」とかかなりポイント突いてることもあります。そんな人はいないと知ってイエスが放った含蓄ある言葉です。一概に単なるフィクションだ、インチキだ、というわけでもなく。中身を知ってないとジャッジもなにもできないのでまずは学んでみることがなによりも大切です。しかも海外にいくのであれば、どこの国に行くのかにもよりますが、行く先の国のことはある程度下調べしなければなりません。物価、法律、宗教、言語、その国独自の決まり。たとえば親指をグッと立てる仕草があり、日本ではgoodの意味で使われますが、海外ではダメなんですよね。知らず知らずにルールを破ってしまって、危険な目に遭うことがない様に、知っておかなければいけないことは結構あります。

話を戻すと、当時の日本の農民は言われたことをそのまま鵜呑みにするのではなく、ソクラテスさながら、問答をしていたわけですね。疑問を持つこと、なぜそうなのか?それは本当か?その根拠はなにか?面倒なことですが、疑問を持つこと、疑問を持ったら聞くこと、そして書かれたものは真摯に答えること。そのやりとりがないと人は腐りますからね。それ以外にも宣教師たちは後進国に出向いて、自分達の技術力を見せつけ、信じればこの技術を教えてやるなど、つまりエサがあったらしいですが、日本には高度な技術がすでにあったため、その手段が使えなかったとか。(本当かな?アメリカが爆弾作ってた時竹槍もってたのっぺらぼうがうちらだよね?ここら辺は謎)

とにかくその後、ザビエルは、こりゃこいつらは一筋縄ではいかねえ、布教を広めるのはなかなかに苦労するぞという手紙を祖国に出しています。

そのほかにも、全知全能の神が天地万物を作ったのであれば、なぜ悪もあるのか?などと穴だらけのキリスト教のナゾを純粋な疑問で突っついていきました。流石にザビエルも「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された」といって帰国していきました。

ザビエルが来た時代には、日本には誰がいたか。あの秀吉です。裏で日本人の女性や子供などを人身売買だか奴隷貿易だかをしようとしていたとかで、それを知った秀吉が大激怒して、やつらを国外追放したようです。

ここら辺はスペイン、イギリス、中国、だけでなく周りのあらゆる外国がどう動いていたのか、世界の歴史と照らし合わせた上で流れを読まないといけません。でないと、本当に全体図が見えてきません。世界史と日本史は常に同時並行で、その上で宗教のこと、政治、経済、その当時の農民の暮らし、その当時のトップはだれか、有名な人は誰がいたか、芸術や文化人はどんな作品を作っていたのか、どんな作品が人気だったのか、人気だったのはどんな時代背景があったからなのか?ついでにこういうことまで全て繋げたら、ようやく、ほんの少しだけ世界のことがわかります。と言いたいところですが、そんなちっぽけな知識量ではこの世のなんにもわかりません。ありとあらゆる事を学んで、繋げて、それを繰り返し、繰り返し、関係のありそうなもの、なさそうなものも含めたさまざまな分野を学んでようやく点と点が繋がる瞬間を迎えます。これが、おもしろいこと、おもしろいこと。どんな教えも自分の肥やしになるように。過去の先人たちのストーリー、神話、口伝、寓話...寓話なんかは短く、可愛らしい物語で動物がたくさん出てきて子供でもわかりやすいのに、教えが詰まっています。“北風と太陽”のように、強い風で無理やり吹き飛ばすのではなく、太陽でほかほかと照らすことで相手が自ら動くこともあれば、“酸っぱいぶどう”のように、あそこのぶどうが美味しそうだと思って取ろうとしたのに、手が届かなくて、手に入らないとわかると途端に、憎くなって、あんなぶどう別にほしくなかった、どうせ酸っぱくてまずいはずだ、などと思い込むなど。実に人間心理を上手に反映していると思います。自分が思ったことを、相手に投影してしまう、ひっくり返してしまうようなおかしな現象は人間の心理に存在しています。何より、人間の脳は理由を後付けするので、そうなるのも無理はないですが、人生の早い段階でこの矛盾に気付くべきなのでしょう。

 

スピノザのいう神とアンソニーホプキンスの言葉

「神を信じますか?」

アインシュタインは、いつも同じ答えを返しました。

「私はスピノザの神を信じています。」

スピノザの神とは– 以下文

「祈ったり、告解したりするのはやめなさい。

楽しんで、愛して、歌って、この世界が与えてくれるすべてのものを楽しみなさい。

あなたが自分の家だと言う、冷たく暗い寺院には行ってほしくないのです。

私の家は寺院にはなく、山々や森、川や湖、浜辺にあるのです。そこが私の家のある場所であり、私の愛を表現する場所なのです。

私について書かれた文章に惑わされないでください。もしあなたが私に近づきたいのなら、美しい風景の中に私を見て、風や熱を肌で感じてみてください。

何も尋ねないでください。私にはあなたの人生を変える力はありません、その力はあなたにあります。

怖がらないでください。私は裁きませんし、批判もしませんし、罰も与えません。

私を、敬うべき簡単なルールに単純化する人を信じてはいけません。それらは、あなたに自分の行いが至らないと感じさせ、罪悪感を抱かせるだけです。あなたを支配下に置くためのものです。

この世には、あなたにお示しする美がたくさんあり、それを発見するかはあなた次第なのです。

私があなたにルールを与えたと思わないでください。人生の所有者はあなただけであり、それをどうするかはあなたが決めることです。

死後のことは誰にもわかりませんが、一日一日を最後のチャンスだと思って、愛し、喜び、必要なことは何でもすることが、よりよく生きることにつながります。

誰かが私の存在を強く主張しているからといって、私を信じないでほしいのです。いつもあなたの中に、あなたの周りに、私を感じていてほしいのです。」

当時、スピノザの思想があまり受け入れられなかったことは想像に難くありませんが、もしかしたら今でもそうかもしれません。スピノザが説く神は、赦しや罰といった人間の行為から切り離された自由の神です。スピノザは、人生を生きる人の手に戻した哲学者の一人です。

アインシュタインは、幾何学的で自然的な神の見方を完全に受け入れました。私たちにとって宗教とは何か、何が視野を広げてくれるのかを、私たちに再考させてくれる概念です。

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言われなければならない人生の残酷な真実とは何でしょうか?

俳優のアンソニー・ホプキンスのこの言葉は残酷です。

あなたを愛する準備ができていない人を手放しましょう。

これは、あなたが人生でやらなければならない最も難しいことであり、最も重要なことでもあるでしょう。

変わりたくない人と難しい話をするのはやめましょう。

あなたの存在に何の興味もない人のために顔を出すのをやめましょう。

あなたの本能は、周囲からの評価を得るためにあらゆる手段を講じることだと思いますが、それはあなたの時間、エネルギー、精神的・肉体的健康を奪う衝動です。

あなたが喜びと興味とコミットメントを持った人生のために戦い始めたとき、誰もがその場所までついてきてくれるとは限らないのです。

それは、自分を変えるということではなく、あなたと一緒にいる準備ができていない人を手放すということです。

もし、あなたが相手のために時間を割いているのに排除されたり、侮辱されたり、忘れられたり、無視されたりしたら、その人たちにあなたのエネルギーと人生を提供し続けることは、自分にとって良いことではありません。

真実は、あなたは皆のためではなく、誰もがあなたのためにあるわけではないということです。

だからこそ、友情や愛情が一致する人を見つけると、とても特別なものになるのです。

そうでないものを経験したからこそ、それがどんなに貴重なものかがわかるのです。

この地球上には何十億という人々がいて、その多くはあなたの関心とコミットメントのレベルで見つけることができます。

たぶん、あなたが姿を見せなくなったら、相手はあなたを探さなくなるでしょう。

もしかしたら、あなたが努力するのをやめたら、関係は終わってしまうかもしれません。

たぶん、あなたがメールをやめたら、あなたの携帯電話は何週間も暗いままでしょう。

それは、あなたが関係を壊したということではなく、関係を維持するためにあなただけが与えたエネルギーが、その関係を維持していたということです。

それは愛ではなく、執着です。

それは、それに値しない人にチャンスを与えているのです。

あなたにはもっともっと価値があるのです。

あなたの人生で最も貴重なものは、あなたの時間とエネルギーです。

あなたが自分の時間とエネルギーを捧げる人や物事が、あなたの存在を決定づけます。

このことに気づけば、自分に合わない人、自分に近付くべきでない活動や空間と過ごすと、なぜこんなに不安になるのかがわかるようになります。

自分自身や周りの人たちのためにできる最も重要なことは、自分のエネルギーを何よりも激しく守ることだと気づき始めるでしょう。

自分の人生を、自分と「相性のいい人」しか入れない、安全な場所にしましょう。

あなたは誰も救う責任はありません。

相手を説得して改善させるのも、あなたの責任ではありません。

人のために存在し、自分の人生を捧げるのがあなたの仕事ではありません

あなたには、健全で豊かな人々との真の友情、真のコミットメント、そして完全な愛がふさわしいのです。

有害な人々から距離を置くと決めることで、あなたにふさわしい愛、尊敬、幸福、そして保護を得ることができるのです。

芸術

芸術
ロミオとジュリエット
みちるとはるか
ニーチェ

あらためて思う。芸術とはなんなのかと。芸術というのは、私たちが生きる世界を表現する手段であり、人々の感情、思考、信念、文化、歴史、哲学などを表現することができるもので、芸術は、個人的な表現や社会的な表現、政治的な表現など、様々な目的でも行われる。

私たちが生きているこの世界について、そしてこの世界で生きている私たちについて。

ただそれを残して誰かに伝わったり伝わらなかったりする。芸術は無意味なものであるし、人生もそもそもは無意味なものであるのに、こんなことをするのはなぜなのか?という疑問がある。

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、どうやって死んだか– ジュリエットが仮死状態になっているのをみたロミオが、本当に死んでると思って悲しみ、自らもあとを追って死んだのだ。

そして、仮死状態から目が覚めたジュリエットもまた、ロミオが死んでいると知って、あとを追って死んでしまう。つまり、ふたりとも相手の後を追って死んでいる。

これは、人生は「あなたなしで生きるなんて無理」だということで、人生そのものよりも、愛する相手の方が大事だということ。これが人生の正体である。

人生というは生きる価値も、意味も、もちろんないのだけれど、生きていくなかで、誰かを愛したり、必死で夢を追いかけたり、なにか情熱を持ったり、仲間や家族をつくったりすることで、意味のなかった人生というものが、かけがえのない宝物になってしまうというミラクルハイパー逆転現象が起こる。ことによって、生きる価値がそこで創造される。

「はるかのいない世界なんて、救ったって意味ないじゃない」

これはみちるの言葉だ。みちるの真っ直ぐで、正直な心からの言葉なんだと思う。このふたりは、まるでロミオとジュリエットのようだね。

みちるにとっても、やっぱり、"世界 < はるか" の図式なのだろう。世界や、人生、生きるということそのものは愛するものに負けるほどのものである。

さて、ここにきてニーチェの話をするのは、やはりこの意味のない人生というものを生きているなかで、ニーチェのいうところの末人になってしまうという点。これからどう逃れたらいいのだろう。

つまり、だれしもが、ロミオとジュリエットやはるかとみちるのようにはなれるわけではない。なれる可能性はあったとしても、なれないこともある。こんなにちっぽけな生きるということを続けていくうちに、やはり厭世的な考え方に染まっていく。意味がなさすぎる人生、なにをやるにも価値など感じない。次第になににも興味が湧かなくなってくる。生きる屍のように、無味乾燥に、退屈な生を送る。無駄なことがくり返される。このつらさ、虚無が、やがて自らを自死へと誘いだす。

人生の意味のなさ、どうせ最後は死ぬだけなのに、なにになるんだこんなもの、という無に帰すような生産性のない自己嫌悪に襲われるたびに、ニーチェを思い出し、ただ超人たれよ、と己で己を鼓舞するのだが、それでもやっぱり人生には意味がない。どうせなにもかも忘れて消える。

それなのに、生きなければならない。だから、最初に戻るけれど、芸術というものを考えなければならない。ただ花が咲いたとか、空が青いとか月が綺麗ということに目を向け詩を描いたり歌ったり踊ったりするのは、本当に生きるのに必要なことなんだと。鳥の声や肌で風を感じること、美味しい水や流れる空気、音も匂いも感じることができる喜びがあるという当たり前のことに目を向けてみろやってことですたい。
私にとっては表現する、アウトプットをするということは、自分が今何を考えているのかを再確認する手段でもあり、みずからを癒す役目もある。

生きていくなかで日々、傷付いていく心を癒そうとしている。

レヴィ=ストロースの言っていたこと

レヴィ=ストロースが冷たい熱帯で、呪術と科学は対立させるのではなく両者を認識の二様式として並置する方がよいとした。両者は有効性や成績から見ると同等ではないが、少なくとも知的操作の種類に関しては相違がない。知的操作の性質が異なるのではなく、それが適応される現象のタイプが違うのだと。

レヴィ=ストロースは、人類学者であり思想家であり、文化人類学の分野で重要な貢献をした人物です。彼のアイデアの中には、冷たい熱帯と呼ばれる地域の文化や社会に関する研究があります。
冷たい熱帯という概念は、熱帯地域における複雑な文化や社会の存在を指し示すもので、この地域において呪術や科学といった知的操作が行われているとレヴィ=ストロースは指摘しました。
彼は、これらの知的操作を対立させるのではなく、むしろ両者を認識の二様式として並置することがより適切であると主張しました。つまり、呪術と科学は異なる方法や理論を持っているかもしれないが、知的操作の種類においては相違がないというのです。レヴィ=ストロースは、知的捜査の性質自体が異なるのではなく、それが適応される現象のタイプが異なると主張しました。つまり、呪術と科学はそれぞれ異なる現象や問題に対して適用されるものであり、そのために異なる理論や方法が必要となるのです。
ただし、有効性や成果といった観点から見ると、呪術と科学は同等ではないかもしれません。科学は厳密な方法や証拠に基づいている一方、呪術は信仰や儀式によって支えられることがあります。しかし、レヴィ=ストロースは両者を並置することで、文化や社会の多様性を認識し、より包括的な視点を持つことができると主張したのです。

ChatGPTの補足

レヴィ=ストロースは、これまで知の巨人たちが気付いてきた哲学的体系を構造主義によって覆した人ですが、それはやはり未開の土地に赴いたことが大きいでしょう。

(...そもそも、未開人は、先進国に住む我々と比べて知性が劣っていると思っていた。遅れた、未発達の、無知な野蛮人だと決めつけていたのです。ですが、彼らの知性と私たちのそれは、比べてみたところなんら劣るところはなかったのです。彼らは知性を行使する対象が我々と違うだけだった。構造的にいってしまえば我々の知性は、同じ、ということです。

これは大きな発見なのでしょうか?くだらない差別心がなければ、そんなことは、もとよりわかっていたことなのかもしれない。私たちの目を曇らせているものは、なんなのだろう。それこそ、進んだ文明こそその一端を担っているのではないかとも思える...)

さあ呪術、という言葉が出てきた。個人的には呪術廻戦以外であまり聞いたことがない言葉だけど、わかりやすいのはシャーマンかな。

ゲザ・ローハイム博士は次のように書いています。

「あらゆる未開部族には呪医がいる。そして呪医が精神疾患患者または精神異常者であり、少なくともその治療行為が神経症や精神異常と同じメカニズムを基盤にしていることは容易に説明できる。人の集団はその集団の理念によって動き、理念は常に幼児期の状態を基盤にする」

「幼児性を持つ状態は成人になる過程で変化したり反転したりし、さらに現実社会に適合させる必要から変化する。それでも幼児性はそこにあり、人の集団が存在するために必要な、目に見えないリビドー的結び付きをもたらす」

したがって呪医は、その社会の大人ひとりひとりの精神(プシケ)に存在する象徴的な幻想を抱くシステムを、目に見えるようにし、周知させるだけなのだ。

「呪医は、この幼児性を持つ社会的行動の主導者であり、共通する不安を照らす指導者である。呪医は、他の者が、獲物を追い、普通に現実と戦えるように、悪魔と戦うのである」

そういうわけで、どこの社会でもかまわないが、誰かが自ら、意図的でもそうでなくても、自身の心の迷宮に続く曲くねった道を下りて、闇への危険な旅に出るとすれば、すぐに象徴的な形の光景のなかにいることに気付く。

前にシャーマニズムについて書いたやつ

だからシャーマンの儀式は古来から受け継いできたまま変わってないんだな。そりゃそうだ。だって人間の脳味噌が変わっていないし、恐怖心や不安を払拭するための技術として有効に機能するものなんだから。こっちが進化してないのに進化させる必要ないしな。

進化していくテクノロジーが我々を置いて日々さらなる進化を辿っていく中で、進化しない脳で立ち向かっていく我々がとるべき行動、そしてその未来とは。はあ、しりたくもありませんね。(一杯いっぱいで投げやり)

自罰的な半数思考

三島由紀夫が「自己批判は非生産的だからやめたんです」 と言っていて、心にしみた。 自己批判と自罰的な反芻を私は良くやるが、やるべきことは失敗から教訓を学ぶことで、思い出すのはその教訓だけでよいのだ。

一度止まって、考えてみること。問題と、対策と、自分の本来のゴールからそれていないかということを把握する。 そして、やるべきことをやる。たったこれだけであるのに、自己批判を始めると、過去にあった自分の失敗、情けないこと、嫌なことを思い出して、いやな気持ちに浸りはじめてしまう。これは、なんの意味もないことだ。なんでこんなからっぽなことをいちいちしてしまうんだろう。 まずは自分のことを見直して、再定義し、リストを作る。 リストはなるべく細かくし、手をつけやすくすること。そしてやっていくうちに、そのリストのどこがダメだったのかがわかる。自分を責めるのではなく、リストの項目を責めればよいだけになる。どこまでも、前にすすむために、意味のあることをやるようにする。

自分の感情を細かく分解することはうつ病にも効果的である。 自分は悲しんでいるのか、怒っているのか、それは自分自身に対してか、相手に対してか。 種類を分解して、メタ認知をしていくようにする。感情のコントロールも、行動の自己コントロール能力も上げていくために。 筋トレや勉強と同じで、自己コントロール能力も、メタ認知も一朝一夕では身につかないものなんだな。 大変だね

遭遇

偶然と偶然が織りなすもの

中学生の頃の話。9月に体育祭があり、その後には合唱祭が行われた。

合唱祭ではクラスごとにポスター絵を描かなくてはいけないらしく、各クラスから一人描く人が選ばれた。その話しの後、担任から名前を呼ばれ、案の定描いてくれと頼まれて、私が描くことになった。本来であれば放課後は部活に行っていたところだが、それからしばらくはポスター制作に取り掛かることになったのだ。

学校が終わり、放課後、美術室へと向かう。美術室にいくと、各クラスから一人ずつ制作担当の人がすでに何名か来ていた。私の席は窓側の一番後ろなので、ポスターもそこで描くことにして、さっそく準備に取り掛かる。美術の先生もいて、もちろん顔なじみの先生で、私が来たことに驚かなかった。というか指名したのはこの先生ではないかと思う。

放課後の、西陽の差すーオレンジ光が照らす静かな美術室に、えんぴつを走らせる静かな音だけが響き渡る。すぐ隣は校庭なので、時折り陸上部の連中が美術室の前を駆けていく。野球の元気な声や、その奥にあるテニスコートからもボールの打ち合う音やかけ声がかすかに聞こえてきていた。

私も普段はそのテニスコートにいるが、今がなんとも心地いい。喧騒から離れて、静かで隔離された場所で自分のやるべきことにひとり集中する。こんないい環境は他になかったと思う。作業ははかどった。

その後、制作したポスターは賞を貰い合唱祭も無事に終わったが、私にはあの西陽の差す放課後の美術室での制制作体験こそがなによりもプレゼントだった。今でもよき思い出として残っている。  

自分が良いと思うものがなんなのか。自分の価値観はなにかとよく考えるが、私が良いと思うものは偶然と偶然が織りなす、体験に由来する–

ある日、買い物を終えて車を運転しながら帰路にいた。
途中、信号で止まるとそこは橋の上で、季節は秋頃だった。ふと横を見ると橋の下に沢山のふさふさとしたススキがゆったりと風に揺れていた。その動きはどこか優雅で、夕暮れの赤い日光に照らされて幻想的にすら見えた。なんとも綺麗な光景に見惚れていると、橋の向こうからおばあさんが歩いてきて、そのおばあさんもふと横を見たくなったらしい、ちらり、と見た後に、今度は身体の向きごとススキに向かってしばらく眺め、そして、おもむろに手をポケットに突っ込んだかと思うとスマホを取り出して写真を撮り始めたのだ。

その一連の流れを車の中から見ていた私は、おばあさんの心の動きが手に取るようにわかって笑みがこぼれた。

風情のある光景、夕暮れのサーモンピンクと濃いオレンジのグラデーションの空。心地いいそよ風、揺れるススキ。完璧ともいえる風景だった。もしここにゴッホがいたら、絵に描いたかもしれない。そんな風景と、おばあさんと、赤信号で止まっていた私。それから青になったので走り出して家に帰ったけれど、今日はよいものを見た、と思った。

なんてことないものなのに、とてもよい気分になって、穏やかで、心地がいいもの。なんてことないことなのに、とても素敵だと思えるものがある。私がよいと思うものは、こういった偶然と偶然が織りなす、...それはタイミングだったり、季節だったり、視覚的な美しさや心地よさだったりする –それらが複合的に混ざり合い、重なり、調和する。その偶発的な瞬間に、たまたま居合わすというラッキー。あの時間に買い物に出かけたから、夕陽が綺麗だったし、信号で橋の上に止まったのも偶然だし、おばあさんが歩いてきたのも、ススキが生えていたのも、季節的にもタイミングがよかった。全ての小さなことが重なった時に、絵のような瞬間が作り出され、その中に自分がいることの不可思議さと光栄が、たまらなく嬉しい気持ちになる。

日々にこういう瞬間がたくさんあればいいのに、と思っている。というか、そういうものじゃないと、なかなかよい体験をした!良いものを見た!とは感じられない。

私という確固としたものはなく
五つの要素で成り立つ
色=この世を使ってる物質要素
全ては空であり実態を持っていない
物質とはつまり概念だから空である。
色即是空は宇宙観を表している
変化すること移ろいゆくものは美しい
その中であと何度心を奪われる瞬間に遭遇するか

千利休と茶道

 

 

 

 


茶道

 

 

一期一会 
今日、今この瞬間、その時にしかないものに集中し、今を最高に楽しみましょう。昨日あったいやなことや、わからない明日のことは、今気にしても仕方がありません。今日、この一日を、大切に過ごすということを一杯のお茶を通して学んでいきましょう。

 

 

 

日本に古くからある茶道という文化があります。現代でも、お茶はたくさんの人に愛され、お茶の時間を楽しむ人もたくさんいらっしゃいます。ほっと一息付けるお茶の時間は、人生に欠かせないものかもしれません。そんなお茶は私たちの日常にごく当たり前に馴染んでいるものとも言えるものですが、"茶道"というと、格式ばったイメージが先行してしまい、お作法を知っていないと恥をかきそう、だとか本場のお茶は苦そう、わびさび、といってもよくわからない、地味な世界....などと思う方もいるかもしれません。そんな風に少しとっつきにくいように感じるかもしれませんが、堅苦しく考える必要はありません。ただ一服の茶を飲んでもらうという、ただそれだけのことなのです。ですが、それだけのことが、実は日本人が考えた、究極のおもてなしだという人もいます。

そのわけを理解するためには、まず千利休という人物について知っておく必要があります。千利休1522228日に生まれました。時代は戦国時代から安土桃山時代にかけて、商人、茶人として生きた人です。17歳のときから茶道を習い始め、『わび茶』という茶式を完成させるだけではなく、さらに発展させようと自ら茶碗などの器具のデザインを考案したり、職人に作らせたりもして、その道を極めていきました。

千利休を語るときに、欠かせない人物が羽柴秀吉豊臣秀吉)です。利休は秀吉の側近であったことでも有名です。天下をかけた大戦に挑む秀吉のために、利休は一服の茶を立ててもてなしました。秀吉がこの時、本陣を置いていたのは天王山の麓の宝積寺です。地元では宝寺とも呼ばれています。1582年に行われた『山崎の戦い』の舞台でもあり、本能寺の変で討たれた織田信長の仇を討つために秀吉が明智討伐の本陣を置いたとも言われている場所です。そして、その出陣のために、千利休が秀吉のために"囲い"(仮設の茶室のこと)として作ったのが『待庵』です。
待庵とは、千利休の茶室として唯一現存する国宝の茶室のことです。現在は、京都府乙訓郡大山崎町にある妙喜庵というお寺にあります。広さは二畳、窓は三つで、壁は藁が混じった質素な土壁でできた暗い部屋です。その入り口は、小さなにじり口になっています。当時、陣中で茶を振舞う場合は、陣幕で仕切った野だてが一般的でした。しかし、利休は、秀吉が茶を飲むための特別な茶室を作ろうと考えたのです。それは、壁や屋根で仕切られた密室でした。「狭いこと」「外が見えないこと」ここに、あえてこだわりを持ったのには、利久の深い考えがありました。完全にそこで二人だけになれる場所を作りたかったのです。戦の最中で、常に神経を尖らせてなければいけないなかで、どんな場所がくつろげるのか、安心してお茶を飲む場所を、と考えたのかもしれません。そういった空間の方が、人の内面を振り返ることにも適していたともいえます。そして、山崎の戦いの直前、利休は秀吉に茶を振舞いました。その茶室には、戦を感じさせるものなど何もなく、静かな空間でした。そこで、二人は膝を突き合わせるようにして、お茶を飲みました。
秀吉は、ここに来るまで戦と移動の連続でした。そして、今、運命を左右する大戦が始まろうとしている。利休はあたたかな一服の茶に、自分自身を静かに見つめてくださいという秀吉への想いを込めたのかもしれません。秀吉のために作った、自らの心と向き合うための茶室。そこでの一服の茶こそ、千利休の究極のおもてなしだったのです。

二人の仲を表わすこんなエピソードがあります。ある日、利久の家の庭にあさがおが咲き誇っていると聞いた秀吉は、茶を飲みに行くと利久に伝えました。ですが、いざ行って見ると、あさがおの花はすでに摘み取られていました。興醒めした秀吉が茶室へ入ると、床の間に、ただ一輪のあさがおが生けてありました。

これは、秀吉が天下人になった後のお話です。つまり、今までは多くのライバルがいる中で群雄活況戦していた秀吉が、その天下を取って唯一の人になったことを、お祝いするために、ただ一輪のあさがおでもって迎えたという利久の粋な計らいだったのです。秀吉も、これには感動したことでしょう。互いをよく理解し、ともに茶の湯という、もてなしの形を深めていった利久と秀吉。しかし、秀吉が天下統一を成し遂げた直後、二人の間に決定的な破局が訪れます。

山崎の戦いの後、秀吉から暑い信頼を得ていた利久ですが、突如秀吉から切腹を命じられることとなります。利休はなぜ、死ななければならなかったのでしょう。そこには、利久の「もてなし」が深く関わっているのではないかと言われています。

15912月、利休は秀吉から堺の自宅へ戻り、謹慎するように命じられます。舟で堺へ護送される時、二人の弟子が秀吉から咎められるのを覚悟で見送りに駆けつけました。そのあと、ほどなくして、利休に切腹の命令が下されます。利久が死の直前に、弟子の松井康之に当てた手紙には、その時の心境が綴られていました。

「わざわざ、お便りいただきありがとうございます。秀吉様からのお使いが来て、堺までのぼり下れとのご命令でしたので、とるものもとりあえず 昨晩、京を去りました。忠興様と織部様が淀まで見送りに来てくださったのを船着場で見つけた時は本当に驚きました。かたじけないと、お伝え願います。」

 

身分や立場を捨て、ありのままの心で互いを気遣う。そうすることで、相手と分かり合える。そう利休は考えていたのかもしれません。しかし、それは秀吉にとって、次第に我慢のならないものになっていきました。

秀吉は、もともと氏素性がない人でした。ですが、彼は天下人まで登りつめてしまいました。天下人になり、身分を得たのです。数多の戦を超えて、そこまでの地位を自らで勝ち取りました。そうなった時に、あくまで対等ですよという風に利休から言われることに、彼は耐えられなくなったのかもしれません。それはある意味、秀吉のしてきたことや、勝ち取った権力の否定に繋がるような思想でもあるからです。人間同士の、対等な交わりを生む一服の茶が最高のもてなしになると、利休は信じていました。そして、利休はその信念に生き、死んだのでした。利休の亡き後は、弟子の古田織部が茶道を引き継いで行きました。

 

 

 

 

日々是好日
喜びであろうと、悲しみであろうと、
その時の感情をも大切にしよう。
その日一日を、ただありのまままに生きよう。

 

 

 

 

 

 

明治時代に生きた岡倉天心という人物をご存知でしょうか。江戸が終わり、明治時代になると日本では一気に西洋からの文化が広まっていきました。この激しい荒波のなか生きた岡倉天心は、この時代においてどのような精神を貫いたのか、見ていきましょう。

岡倉天心1862年に貿易商の次男坊として生まれました。出身地である横浜は、貿易の拠点として賑わい始めていたのです。そのため、横浜には西洋からやってきた様々な商人たちがひしめき合い、グローバルな場所でもあったのです。そんな中で働いていた岡倉天心の父親は、取引をする際にどうしても外国語の取得が必要だと感じていました。そこで、父は息子をアメリカ人宣教師が開いていた塾に通わせることにしたのです。十分な教育を受けて育った天心が十四歳になるころ、東京大学の第一期生のして入学し、そこでとある西洋人と出会います。

その人物は、東大の講師として招かれていたアメリカの哲学者、アーネスト・フェノロサです。主に、政治学哲学史、経済学などを教えていました。またフェノロサは美術品のコレクターでもあり、なかでも日本の絵画や神社、仏閣といった伝統にたいして強い興味をもっていました。英語がすでに堪能になっていた天心はフェノロサの助手となって、彼の研究や美術品のコレクションの手伝いをすることになり、そうなるにつれ、次第にまた天心も日本の伝統美術の美しさに惹かれていくのでした。

ただ、当時の日本は明治維新が終わった直後で、西洋の文化に染まっていたため、日本の伝統的な文化は時代遅れだという認識でした。西洋こそ新しいもので、それを真似することこそ正しいと考える風潮が強くありました。いわゆふ文明開花の時期です。さらに、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といって、国民が自ら自分の国の貴重な文化財を壊して回る運動まで起きてしまっていました。これに対して、フェノロサはなぜ日本人は古代ギリシアやローマの美術にも匹敵する自分達の文化や芸術を壊し、西洋の真似事などしているのかと大きなショックを受け、日本人の誇りを捨ててはならないと国民に訴えました。その上でフェノロサは、日本の古い寺などを実際に歩いて周り、これ以上日本の文化財が壊されないようにと保護活動を始めることを決心したのです。ですが、それには、言葉も通じず土地勘もない異国の地で一人でやるわけにはいきません。そこでフェノロサは、教え子でもあり当時文部省の役人となっていた天心に協力を呼びかけることにしたのです。そして、二人は日本の伝統美術の復興活動に乗り出すのです。

まずかれらがやったことのひとつは、『古社寺保存法』の制定です。これは、神社仏閣にある建物などを壊してはいけないというルールで、これが発展して現在の文化財保護法にまで繋がったのです。そしてらもうひとつは、現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校の設立でした。ただ、この学校はもともと日本古来の美を保護するという目的で作られたため、流行りの西洋美術ではなく、日本の美術を専門的に学ぶ教育機関でした。そして、設立してから翌年に、岡倉天心は二十八歳にして東京美術学校の校長となり、生徒たちとともに新たな日本画を創造するという運動を推し進めました。卓越した語学力と行動力をもって、自らの運命を切り開いていった岡倉天心でしたが、三十代半ばを過ぎた頃、ついに悲劇が彼を襲います。なんと東京美術学校から追放されてしまうのです。

その一番の理由は政府の方針転換でした。初めは国も天心らの国の美術を保護するという意向を汲んでくれていましたが、文明開花の路線へと次第に強く舵を切り始めたのです。そして、政府は東京美術学校に対して日本だけではなく、西洋美術も扱うようにと要求し始めますが、天心はその要求に応えることはなく抵抗し続けました。その結果、国からも美術界からも厄介者として扱われるようになり、さらには女性スキャンダルまで明るみにされて追放されることになったのです。しかしその後、天心は自分を慕ってついてきてくれた教え子たちと日本美術員という民間団体を立ち上げ、新たな日本画を立ち上げるために動き出します。その弟子の一人には、近代日本画家の横山大観もいました。彼らの拠点は茨城県の最北端にある断崖絶壁にある景勝地の五浦海岸です。そして、この移転の年に、岡倉天心はとある本を出版します。それは『THE BOOK OF TEA茶の本でした。この本は西洋の人にも日本人の茶の精神や文化を正しく知ってもらうために書かれたものでした。日本の文化を理解する為には、お茶という切り口が最も的確に伝わるだろうと考えたのです。このお茶の本を出発したのは、1906年でした。ちょうどこの7年前に、二束稲造が『BUSHIDO』武士道という本を海外に向けて出版していたのです。この武士道が出版される前後には日清戦争日露戦争がありましたが、日本はそれらに勝利したことによって世界から近代国家として認められ国際的地位が向上したと言われています。西洋の人々の多くは、やっぱり日本人は武士道の国だ、強いサムライ魂を持った近代国家だと思ったことでしょう。しかし、天心はそれが嫌でした。戦争などという野蛮な行為でしか文明国として認められないならば、野蛮なままでかまわない。日本にはもっと深くて美しい文化がある。それがお茶なのだという思いをもってニューヨークで茶の本を出版し、茶道という日本の伝統文化とそこに息づいている東洋文化を世界に発信したのでした。そこにはこんなことが書かれています。

「茶はもともと薬として用いられ、やがて飲み物となったもので、中国では八世紀に優雅な遊びの一種として洗練され、詩や芸術と並ぶ域にまで達したとされる。さらに、日本に入ってきて十五世紀にはついに美を極め、崇める宗教、すなわち茶道にまで高められていったのである。

この世界は完全ではない。誰の日常にも、つまらないこと、嫌なこと、嘆かわしいことなどがあるものだ。しかし、その中で少しでも美しいものを見出し、それを大切にしていこうという穏やかで優しい試みこそ茶道の本質なのである。さらに、茶道の本質とは美しさの追求だけには留まらず、日本人の住居、衣服、料理、陶磁器、絵画、文学に至るまでのありとあらゆるものが茶道の影響を受けている。したがって、日本の文化を学ぼうとするのなら、茶道の存在を知らずには済まされないのだ。」

完全で日の打ちどころのないものを求めるのではなく、不完全なものを受け入れ、そのなかに美を見いだす。それが茶道の基本姿勢としてあるのです。さらに、

 

「日本人にとって茶道とはたんにお茶の飲み方の極意を説くものではない。それは、生きる術を授けてくれる宗教なのである。たとえば、茶道における茶室とは、人生における広陵とした砂漠にあるオアシスのようなものだ。旅人たちがそこに集まり、芸術鑑賞という共通の泉を分かち合い、疲れを癒すのである。その場には、茶と花と絵があり、それらをモチーフとして即興劇が織りなされる。部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を壊すような仕草や言葉といったものは一切なく、全ての動きは単純かつ自然になされる。そして、それらの背景にはあるひとつの哲学が潜んでいる。それが、中国の三代宗教のひとつ、道教である。つまり、茶道とは道教が姿を変えたものなのだ。」

当時、キリスト教が文化的な宗教となっていた西洋において、宗教は人々の心を支えていたものでもあり、岡倉天心はそういった文化的背景を理解した上で、茶道も宗教のようなものなのだということを伝えようとしたのです。

道教とは、儒教と仏教に並ぶ中国の三代宗教の一つで、老子の教えが思想体系の根本となっているものです。そして、茶道の中に息づいている道教の教えをここで二つ紹介します。

まず一つ目は、あらゆるものを相対的に見るということです。世の中に対しても人に対しても、「絶対にこう」などという思い込みをしてはならないということです。善や悪は人によっても時代によっても国によっても環境によっても変化するものであり、こうあるべき、などというものはありません。そのため、道教では、こうあるべきだと枠に嵌めて考えないことが大切だと説いているのです。

中国の宋の時代より伝わる『三聖吸酸』(さんせいきゅうさん)という寓話を用いて、岡倉天心はわかりやすく解説してくれています。

昔々あるところに、儒教、仏教、道教の代表的人物である、孔子、釈迦、老子の三人がお酢の入った壺の前に立っていました。そして、それぞれが自分の指をお酢に付けて味見をしたところ、それぞれ、酸っぱい、苦い、甘い、と言ったというお話です。

ここに出てくるお酢というのは、人生そのものの例えであると思ってください。現実主義者であった孔子は、事実をそのまま受け入れて、酸っぱいと答えました。また、人生の本質として、苦しみに注目していた釈迦は、苦いと言いました。いっぽうで、人生色々あるけれど、それでも良いところを見つけようとしていた老子は甘いと答えたのです。

天心は茶道もこれとまったく同じで、茶室に入る時も、茶道具や掛け軸を見るときも、どこかに美点、良いところを見出そうとする精神が宿っているといいます。さらに、この考え方は誰かと接する時や、社会や自分と向き合うときも、同じように応用することができます。だから茶の哲学は、生きる術としても使えるのです。

そして、二つ目は、『不完全の美学』です。先ほど茶道は不完全の中でも美を見いだすことが基本姿勢であるというお話がありましたが、これも道教の考え方から来ているものです。かつて、老子はものごとの本質は虚の中にあると説きました。これは芸術という分野においても虚の原理が働いているとして、次のように語っています。

「作品の中に、自分の言いたいことの全てを表現するのではなく、空白を残しておくのだ。そうすれば、その作品を見た者が自分の想像力によって作者の言わんとすることを補い、作品を完結させることができる。本当に偉大な芸術は見た者を釘づけにし、まるで自分も作品の一部ではないかと錯覚を起こさせるちからを持っているのである。」

天心のいう優れた芸術とは、作者一人で完全に表現し尽くしてしまうのではなく、鑑賞者と共に完成されるものであり、そこには道教における虚という考え方があるのだというのです。これを茶道に当てはめて考えると、もてなす側の亭主ともてなしを受ける側のお客さんの両者が歩みより、一緒になって美を楽しむという共同作業によって癒しの空間を完成させるということになります。西洋では、余白を埋め尽くし、完成された美を追求するスタイルに対して、不完全な美を重んじるのが東洋であるともいえます。そして、天心はこのことを踏まえた上で芸術鑑賞をする為の極意を提唱します。

「みなさんは、道教の琴ならしというお話を聞いたことがあるだろうか。これは大昔の中国のことである。龍門という地に森の王ともいうべき一本の霧の木が立っていた。そこにある時、ひとりの千人がやってきて、この木から不思議な琴をつくった。しかし、この琴はよほどの者でなければ受け付けない強情な木であった。しばらくは中国の皇帝のもとへ秘蔵され、多くの音楽家が試みたが、琴から出てくるのは、あざけゆような不愉快な音ばかりでまったく歯が立たなかったそうだ。そこへとうとう、琴弾きの王子こと白河が登場した。彼は荒馬をなだめるようかのようにやさしい手付きでそっと琴を撫でると、静かに弦に触れた。そして、自然や巡り巡る季節、高い山や鳩走る水の流れを歌い始めると、霧の木に宿っていた記憶のことごとくがいっせいに目覚めたのだった。そして、白河は、愛の歌を歌った。すると森は、熱い熱い想いを抱え物思いに沈む若者のように打ち震えた。さらに白河は調子を変え、戦いのうたを歌った。琴からはきしむはがねの音、踏み鳴らす馬の蹄の音、そして嵐の音が鳴り響いた。これらの演奏に恍惚として聞き入っていた皇帝は、いったいどこにこうした技術の秘訣があるのかと尋ねると、白河は次のように答えた。「陛下、他の者たちは自分自身のことしか歌おうとしなかったから失敗したのです。しかし、私は何について歌うかは、琴に任せました。そしてそうするうちに、琴が私なのか、それとも私が琴なのか、わからなくなってしまったのです。」と言ったのでした。」

 

自分が琴なのか、琴が自分なのかわからなくなってしまったのですとありましたが、これが先程の作者と鑑賞者がひとつになって芸術を完成させるという東洋的芸術観のお話と通じます。さらに、

「芸術鑑賞に必要なのは、心と心が共感し、通い合うことだ。そのためには互いに謙譲の気持ちを持っていなければならない。鑑賞者は作者の言わんとすることを受け止めるにふさわしい態度を養い、また作者は自分のメッセージをどのように相手に伝えるかを心得ていなければならないのだ。」

先ほどの琴のお話でいうと、ほかの音楽家たちは自己主張が強すぎたせいで琴に嫌われてしまいました。その一方で白河は、自分が弾くことで虚を作り出し、その空間の中に琴を呼びこんで見事な調和を生み出しました。これは人間関係の構築のあり方とも同じ考え方でもあり、コミュニケーションの極意を示しているともいえます。そして、天心は次のように語ります。

「傑作というものは、それに共鳴するといっこの生きた存在となり、まるで仲間同士のような絆で自分と結ばれていると感じるものだ。私たちに訴えてくるのは腕よりも魂、技術よりも人なのだ。その呼び掛けが人間的なものであればあるほど、私たちからの応答も深いものとなる。巨匠たちと私たちの間に交わされるこのような密かな交換があればこそ、詩や物語でも私たちはこの主人公たちと共に苦しみ、共に喜ぶことが出来るのである。」

そして、天心は最後に死生観についても語っています。彼の死生観は「美しく生きてきた者だけが、美しく死ぬことができる」という考え方でした。そして、天心はそれを見事に体現した人物として天下一の茶人、千利休の名をあげます。並外れた美的感性の持ち主でもあった利休は、自分が美しいと感じるものをだれになんと言われようとも美しいと信じぬく、まさに真の芸術家でした。また、天心によれば偉大な茶人とは常に宇宙や自然との調和を考えて生きているので、いかなる時であろうと死への旅支度が出来ているといいます。

「時の権力者であった豊臣秀吉は、茶人千利休を高く評価しており、両者の交友関係は久しいものであった。だが絶対君主との友情とは常に危険を孕んだ名誉ともいえる。当時は、裏切りが横行した時代であり、自分にとってどんな近しい者であろうと信頼できない世の中だった。そんな中、利休が秀吉の飲む茶に毒を入れ暗殺を目論んでいるという嘘の告げ口をした者が現れた。秀吉にとって、それが真実であろうとなかろうと、そのような疑いが生じた時点でただちに死罪に値するものであった。激怒した秀吉の意思を覆す全てはなく利休は命じられるがまま自害するしか無かったのである。自ら死に赴く運命の日、利休は自分の弟子を最後の茶会に招いた。客たちは悲しみに沈みながら、指定された時刻に待合に集まった。庭の路地を眺めると木々は身を震わせ、葉が擦れる音の中に、亡霊たちの囁きが聴こえてくるようだった。やがて、茶室からめずらしい香の香りが漂ってきて客たちに入室を促した。彼らは一人一人前に進み、席に着くと、まもなくして利休が部屋に入ってきた。招かれた客に茶が振舞われると、主人が最後に自分の茶を飲み干した。定められた作法通り、利休は客たちの前にさまざまな品をかけじくと共に並べた。そして一人一人に、それらを自分の形見として受け取るよう伝えると、茶碗だけを手元に残してこう言った。

「この茶碗は、不幸な定めを負わされた者によって、汚されてしまった。ゆえに二度と人が用いることがあってはならない。」

そして、利休は茶碗を両手で掴み、それを粉々に打ち割った。茶会が終わると客たちは必死に涙を堪えながら最期の別れを告げ、部屋を出て行った。ただひとり、もっとも身近にいた者にだけその場に留まり、最期を見届けるように頼むと、利休は茶会の服を脱いで畳の上に丁寧に折りたたんで、それまで隠していた純白の死装束姿を表した。そして、死の短刀の輝く刃をじっと眺めると見事な時世の句を読んだ。「よくぞ来た、永遠の剣よ、ブッダを貫き、ダルマをも貫いて、お前はお前の道を、切り開いてきた」

顔に笑みを浮かべ、利休は未知の世界へと旅立って行きました。

 

 

end