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千利休と茶道

 

 

 

 


茶道

 

 

一期一会 
今日、今この瞬間、その時にしかないものに集中し、今を最高に楽しみましょう。昨日あったいやなことや、わからない明日のことは、今気にしても仕方がありません。今日、この一日を、大切に過ごすということを一杯のお茶を通して学んでいきましょう。

 

 

 

日本に古くからある茶道という文化があります。現代でも、お茶はたくさんの人に愛され、お茶の時間を楽しむ人もたくさんいらっしゃいます。ほっと一息付けるお茶の時間は、人生に欠かせないものかもしれません。そんなお茶は私たちの日常にごく当たり前に馴染んでいるものとも言えるものですが、"茶道"というと、格式ばったイメージが先行してしまい、お作法を知っていないと恥をかきそう、だとか本場のお茶は苦そう、わびさび、といってもよくわからない、地味な世界....などと思う方もいるかもしれません。そんな風に少しとっつきにくいように感じるかもしれませんが、堅苦しく考える必要はありません。ただ一服の茶を飲んでもらうという、ただそれだけのことなのです。ですが、それだけのことが、実は日本人が考えた、究極のおもてなしだという人もいます。

そのわけを理解するためには、まず千利休という人物について知っておく必要があります。千利休1522228日に生まれました。時代は戦国時代から安土桃山時代にかけて、商人、茶人として生きた人です。17歳のときから茶道を習い始め、『わび茶』という茶式を完成させるだけではなく、さらに発展させようと自ら茶碗などの器具のデザインを考案したり、職人に作らせたりもして、その道を極めていきました。

千利休を語るときに、欠かせない人物が羽柴秀吉豊臣秀吉)です。利休は秀吉の側近であったことでも有名です。天下をかけた大戦に挑む秀吉のために、利休は一服の茶を立ててもてなしました。秀吉がこの時、本陣を置いていたのは天王山の麓の宝積寺です。地元では宝寺とも呼ばれています。1582年に行われた『山崎の戦い』の舞台でもあり、本能寺の変で討たれた織田信長の仇を討つために秀吉が明智討伐の本陣を置いたとも言われている場所です。そして、その出陣のために、千利休が秀吉のために"囲い"(仮設の茶室のこと)として作ったのが『待庵』です。
待庵とは、千利休の茶室として唯一現存する国宝の茶室のことです。現在は、京都府乙訓郡大山崎町にある妙喜庵というお寺にあります。広さは二畳、窓は三つで、壁は藁が混じった質素な土壁でできた暗い部屋です。その入り口は、小さなにじり口になっています。当時、陣中で茶を振舞う場合は、陣幕で仕切った野だてが一般的でした。しかし、利休は、秀吉が茶を飲むための特別な茶室を作ろうと考えたのです。それは、壁や屋根で仕切られた密室でした。「狭いこと」「外が見えないこと」ここに、あえてこだわりを持ったのには、利久の深い考えがありました。完全にそこで二人だけになれる場所を作りたかったのです。戦の最中で、常に神経を尖らせてなければいけないなかで、どんな場所がくつろげるのか、安心してお茶を飲む場所を、と考えたのかもしれません。そういった空間の方が、人の内面を振り返ることにも適していたともいえます。そして、山崎の戦いの直前、利休は秀吉に茶を振舞いました。その茶室には、戦を感じさせるものなど何もなく、静かな空間でした。そこで、二人は膝を突き合わせるようにして、お茶を飲みました。
秀吉は、ここに来るまで戦と移動の連続でした。そして、今、運命を左右する大戦が始まろうとしている。利休はあたたかな一服の茶に、自分自身を静かに見つめてくださいという秀吉への想いを込めたのかもしれません。秀吉のために作った、自らの心と向き合うための茶室。そこでの一服の茶こそ、千利休の究極のおもてなしだったのです。

二人の仲を表わすこんなエピソードがあります。ある日、利久の家の庭にあさがおが咲き誇っていると聞いた秀吉は、茶を飲みに行くと利久に伝えました。ですが、いざ行って見ると、あさがおの花はすでに摘み取られていました。興醒めした秀吉が茶室へ入ると、床の間に、ただ一輪のあさがおが生けてありました。

これは、秀吉が天下人になった後のお話です。つまり、今までは多くのライバルがいる中で群雄活況戦していた秀吉が、その天下を取って唯一の人になったことを、お祝いするために、ただ一輪のあさがおでもって迎えたという利久の粋な計らいだったのです。秀吉も、これには感動したことでしょう。互いをよく理解し、ともに茶の湯という、もてなしの形を深めていった利久と秀吉。しかし、秀吉が天下統一を成し遂げた直後、二人の間に決定的な破局が訪れます。

山崎の戦いの後、秀吉から暑い信頼を得ていた利久ですが、突如秀吉から切腹を命じられることとなります。利休はなぜ、死ななければならなかったのでしょう。そこには、利久の「もてなし」が深く関わっているのではないかと言われています。

15912月、利休は秀吉から堺の自宅へ戻り、謹慎するように命じられます。舟で堺へ護送される時、二人の弟子が秀吉から咎められるのを覚悟で見送りに駆けつけました。そのあと、ほどなくして、利休に切腹の命令が下されます。利久が死の直前に、弟子の松井康之に当てた手紙には、その時の心境が綴られていました。

「わざわざ、お便りいただきありがとうございます。秀吉様からのお使いが来て、堺までのぼり下れとのご命令でしたので、とるものもとりあえず 昨晩、京を去りました。忠興様と織部様が淀まで見送りに来てくださったのを船着場で見つけた時は本当に驚きました。かたじけないと、お伝え願います。」

 

身分や立場を捨て、ありのままの心で互いを気遣う。そうすることで、相手と分かり合える。そう利休は考えていたのかもしれません。しかし、それは秀吉にとって、次第に我慢のならないものになっていきました。

秀吉は、もともと氏素性がない人でした。ですが、彼は天下人まで登りつめてしまいました。天下人になり、身分を得たのです。数多の戦を超えて、そこまでの地位を自らで勝ち取りました。そうなった時に、あくまで対等ですよという風に利休から言われることに、彼は耐えられなくなったのかもしれません。それはある意味、秀吉のしてきたことや、勝ち取った権力の否定に繋がるような思想でもあるからです。人間同士の、対等な交わりを生む一服の茶が最高のもてなしになると、利休は信じていました。そして、利休はその信念に生き、死んだのでした。利休の亡き後は、弟子の古田織部が茶道を引き継いで行きました。

 

 

 

 

日々是好日
喜びであろうと、悲しみであろうと、
その時の感情をも大切にしよう。
その日一日を、ただありのまままに生きよう。

 

 

 

 

 

 

明治時代に生きた岡倉天心という人物をご存知でしょうか。江戸が終わり、明治時代になると日本では一気に西洋からの文化が広まっていきました。この激しい荒波のなか生きた岡倉天心は、この時代においてどのような精神を貫いたのか、見ていきましょう。

岡倉天心1862年に貿易商の次男坊として生まれました。出身地である横浜は、貿易の拠点として賑わい始めていたのです。そのため、横浜には西洋からやってきた様々な商人たちがひしめき合い、グローバルな場所でもあったのです。そんな中で働いていた岡倉天心の父親は、取引をする際にどうしても外国語の取得が必要だと感じていました。そこで、父は息子をアメリカ人宣教師が開いていた塾に通わせることにしたのです。十分な教育を受けて育った天心が十四歳になるころ、東京大学の第一期生のして入学し、そこでとある西洋人と出会います。

その人物は、東大の講師として招かれていたアメリカの哲学者、アーネスト・フェノロサです。主に、政治学哲学史、経済学などを教えていました。またフェノロサは美術品のコレクターでもあり、なかでも日本の絵画や神社、仏閣といった伝統にたいして強い興味をもっていました。英語がすでに堪能になっていた天心はフェノロサの助手となって、彼の研究や美術品のコレクションの手伝いをすることになり、そうなるにつれ、次第にまた天心も日本の伝統美術の美しさに惹かれていくのでした。

ただ、当時の日本は明治維新が終わった直後で、西洋の文化に染まっていたため、日本の伝統的な文化は時代遅れだという認識でした。西洋こそ新しいもので、それを真似することこそ正しいと考える風潮が強くありました。いわゆふ文明開花の時期です。さらに、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といって、国民が自ら自分の国の貴重な文化財を壊して回る運動まで起きてしまっていました。これに対して、フェノロサはなぜ日本人は古代ギリシアやローマの美術にも匹敵する自分達の文化や芸術を壊し、西洋の真似事などしているのかと大きなショックを受け、日本人の誇りを捨ててはならないと国民に訴えました。その上でフェノロサは、日本の古い寺などを実際に歩いて周り、これ以上日本の文化財が壊されないようにと保護活動を始めることを決心したのです。ですが、それには、言葉も通じず土地勘もない異国の地で一人でやるわけにはいきません。そこでフェノロサは、教え子でもあり当時文部省の役人となっていた天心に協力を呼びかけることにしたのです。そして、二人は日本の伝統美術の復興活動に乗り出すのです。

まずかれらがやったことのひとつは、『古社寺保存法』の制定です。これは、神社仏閣にある建物などを壊してはいけないというルールで、これが発展して現在の文化財保護法にまで繋がったのです。そしてらもうひとつは、現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校の設立でした。ただ、この学校はもともと日本古来の美を保護するという目的で作られたため、流行りの西洋美術ではなく、日本の美術を専門的に学ぶ教育機関でした。そして、設立してから翌年に、岡倉天心は二十八歳にして東京美術学校の校長となり、生徒たちとともに新たな日本画を創造するという運動を推し進めました。卓越した語学力と行動力をもって、自らの運命を切り開いていった岡倉天心でしたが、三十代半ばを過ぎた頃、ついに悲劇が彼を襲います。なんと東京美術学校から追放されてしまうのです。

その一番の理由は政府の方針転換でした。初めは国も天心らの国の美術を保護するという意向を汲んでくれていましたが、文明開花の路線へと次第に強く舵を切り始めたのです。そして、政府は東京美術学校に対して日本だけではなく、西洋美術も扱うようにと要求し始めますが、天心はその要求に応えることはなく抵抗し続けました。その結果、国からも美術界からも厄介者として扱われるようになり、さらには女性スキャンダルまで明るみにされて追放されることになったのです。しかしその後、天心は自分を慕ってついてきてくれた教え子たちと日本美術員という民間団体を立ち上げ、新たな日本画を立ち上げるために動き出します。その弟子の一人には、近代日本画家の横山大観もいました。彼らの拠点は茨城県の最北端にある断崖絶壁にある景勝地の五浦海岸です。そして、この移転の年に、岡倉天心はとある本を出版します。それは『THE BOOK OF TEA茶の本でした。この本は西洋の人にも日本人の茶の精神や文化を正しく知ってもらうために書かれたものでした。日本の文化を理解する為には、お茶という切り口が最も的確に伝わるだろうと考えたのです。このお茶の本を出発したのは、1906年でした。ちょうどこの7年前に、二束稲造が『BUSHIDO』武士道という本を海外に向けて出版していたのです。この武士道が出版される前後には日清戦争日露戦争がありましたが、日本はそれらに勝利したことによって世界から近代国家として認められ国際的地位が向上したと言われています。西洋の人々の多くは、やっぱり日本人は武士道の国だ、強いサムライ魂を持った近代国家だと思ったことでしょう。しかし、天心はそれが嫌でした。戦争などという野蛮な行為でしか文明国として認められないならば、野蛮なままでかまわない。日本にはもっと深くて美しい文化がある。それがお茶なのだという思いをもってニューヨークで茶の本を出版し、茶道という日本の伝統文化とそこに息づいている東洋文化を世界に発信したのでした。そこにはこんなことが書かれています。

「茶はもともと薬として用いられ、やがて飲み物となったもので、中国では八世紀に優雅な遊びの一種として洗練され、詩や芸術と並ぶ域にまで達したとされる。さらに、日本に入ってきて十五世紀にはついに美を極め、崇める宗教、すなわち茶道にまで高められていったのである。

この世界は完全ではない。誰の日常にも、つまらないこと、嫌なこと、嘆かわしいことなどがあるものだ。しかし、その中で少しでも美しいものを見出し、それを大切にしていこうという穏やかで優しい試みこそ茶道の本質なのである。さらに、茶道の本質とは美しさの追求だけには留まらず、日本人の住居、衣服、料理、陶磁器、絵画、文学に至るまでのありとあらゆるものが茶道の影響を受けている。したがって、日本の文化を学ぼうとするのなら、茶道の存在を知らずには済まされないのだ。」

完全で日の打ちどころのないものを求めるのではなく、不完全なものを受け入れ、そのなかに美を見いだす。それが茶道の基本姿勢としてあるのです。さらに、

 

「日本人にとって茶道とはたんにお茶の飲み方の極意を説くものではない。それは、生きる術を授けてくれる宗教なのである。たとえば、茶道における茶室とは、人生における広陵とした砂漠にあるオアシスのようなものだ。旅人たちがそこに集まり、芸術鑑賞という共通の泉を分かち合い、疲れを癒すのである。その場には、茶と花と絵があり、それらをモチーフとして即興劇が織りなされる。部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を壊すような仕草や言葉といったものは一切なく、全ての動きは単純かつ自然になされる。そして、それらの背景にはあるひとつの哲学が潜んでいる。それが、中国の三代宗教のひとつ、道教である。つまり、茶道とは道教が姿を変えたものなのだ。」

当時、キリスト教が文化的な宗教となっていた西洋において、宗教は人々の心を支えていたものでもあり、岡倉天心はそういった文化的背景を理解した上で、茶道も宗教のようなものなのだということを伝えようとしたのです。

道教とは、儒教と仏教に並ぶ中国の三代宗教の一つで、老子の教えが思想体系の根本となっているものです。そして、茶道の中に息づいている道教の教えをここで二つ紹介します。

まず一つ目は、あらゆるものを相対的に見るということです。世の中に対しても人に対しても、「絶対にこう」などという思い込みをしてはならないということです。善や悪は人によっても時代によっても国によっても環境によっても変化するものであり、こうあるべき、などというものはありません。そのため、道教では、こうあるべきだと枠に嵌めて考えないことが大切だと説いているのです。

中国の宋の時代より伝わる『三聖吸酸』(さんせいきゅうさん)という寓話を用いて、岡倉天心はわかりやすく解説してくれています。

昔々あるところに、儒教、仏教、道教の代表的人物である、孔子、釈迦、老子の三人がお酢の入った壺の前に立っていました。そして、それぞれが自分の指をお酢に付けて味見をしたところ、それぞれ、酸っぱい、苦い、甘い、と言ったというお話です。

ここに出てくるお酢というのは、人生そのものの例えであると思ってください。現実主義者であった孔子は、事実をそのまま受け入れて、酸っぱいと答えました。また、人生の本質として、苦しみに注目していた釈迦は、苦いと言いました。いっぽうで、人生色々あるけれど、それでも良いところを見つけようとしていた老子は甘いと答えたのです。

天心は茶道もこれとまったく同じで、茶室に入る時も、茶道具や掛け軸を見るときも、どこかに美点、良いところを見出そうとする精神が宿っているといいます。さらに、この考え方は誰かと接する時や、社会や自分と向き合うときも、同じように応用することができます。だから茶の哲学は、生きる術としても使えるのです。

そして、二つ目は、『不完全の美学』です。先ほど茶道は不完全の中でも美を見いだすことが基本姿勢であるというお話がありましたが、これも道教の考え方から来ているものです。かつて、老子はものごとの本質は虚の中にあると説きました。これは芸術という分野においても虚の原理が働いているとして、次のように語っています。

「作品の中に、自分の言いたいことの全てを表現するのではなく、空白を残しておくのだ。そうすれば、その作品を見た者が自分の想像力によって作者の言わんとすることを補い、作品を完結させることができる。本当に偉大な芸術は見た者を釘づけにし、まるで自分も作品の一部ではないかと錯覚を起こさせるちからを持っているのである。」

天心のいう優れた芸術とは、作者一人で完全に表現し尽くしてしまうのではなく、鑑賞者と共に完成されるものであり、そこには道教における虚という考え方があるのだというのです。これを茶道に当てはめて考えると、もてなす側の亭主ともてなしを受ける側のお客さんの両者が歩みより、一緒になって美を楽しむという共同作業によって癒しの空間を完成させるということになります。西洋では、余白を埋め尽くし、完成された美を追求するスタイルに対して、不完全な美を重んじるのが東洋であるともいえます。そして、天心はこのことを踏まえた上で芸術鑑賞をする為の極意を提唱します。

「みなさんは、道教の琴ならしというお話を聞いたことがあるだろうか。これは大昔の中国のことである。龍門という地に森の王ともいうべき一本の霧の木が立っていた。そこにある時、ひとりの千人がやってきて、この木から不思議な琴をつくった。しかし、この琴はよほどの者でなければ受け付けない強情な木であった。しばらくは中国の皇帝のもとへ秘蔵され、多くの音楽家が試みたが、琴から出てくるのは、あざけゆような不愉快な音ばかりでまったく歯が立たなかったそうだ。そこへとうとう、琴弾きの王子こと白河が登場した。彼は荒馬をなだめるようかのようにやさしい手付きでそっと琴を撫でると、静かに弦に触れた。そして、自然や巡り巡る季節、高い山や鳩走る水の流れを歌い始めると、霧の木に宿っていた記憶のことごとくがいっせいに目覚めたのだった。そして、白河は、愛の歌を歌った。すると森は、熱い熱い想いを抱え物思いに沈む若者のように打ち震えた。さらに白河は調子を変え、戦いのうたを歌った。琴からはきしむはがねの音、踏み鳴らす馬の蹄の音、そして嵐の音が鳴り響いた。これらの演奏に恍惚として聞き入っていた皇帝は、いったいどこにこうした技術の秘訣があるのかと尋ねると、白河は次のように答えた。「陛下、他の者たちは自分自身のことしか歌おうとしなかったから失敗したのです。しかし、私は何について歌うかは、琴に任せました。そしてそうするうちに、琴が私なのか、それとも私が琴なのか、わからなくなってしまったのです。」と言ったのでした。」

 

自分が琴なのか、琴が自分なのかわからなくなってしまったのですとありましたが、これが先程の作者と鑑賞者がひとつになって芸術を完成させるという東洋的芸術観のお話と通じます。さらに、

「芸術鑑賞に必要なのは、心と心が共感し、通い合うことだ。そのためには互いに謙譲の気持ちを持っていなければならない。鑑賞者は作者の言わんとすることを受け止めるにふさわしい態度を養い、また作者は自分のメッセージをどのように相手に伝えるかを心得ていなければならないのだ。」

先ほどの琴のお話でいうと、ほかの音楽家たちは自己主張が強すぎたせいで琴に嫌われてしまいました。その一方で白河は、自分が弾くことで虚を作り出し、その空間の中に琴を呼びこんで見事な調和を生み出しました。これは人間関係の構築のあり方とも同じ考え方でもあり、コミュニケーションの極意を示しているともいえます。そして、天心は次のように語ります。

「傑作というものは、それに共鳴するといっこの生きた存在となり、まるで仲間同士のような絆で自分と結ばれていると感じるものだ。私たちに訴えてくるのは腕よりも魂、技術よりも人なのだ。その呼び掛けが人間的なものであればあるほど、私たちからの応答も深いものとなる。巨匠たちと私たちの間に交わされるこのような密かな交換があればこそ、詩や物語でも私たちはこの主人公たちと共に苦しみ、共に喜ぶことが出来るのである。」

そして、天心は最後に死生観についても語っています。彼の死生観は「美しく生きてきた者だけが、美しく死ぬことができる」という考え方でした。そして、天心はそれを見事に体現した人物として天下一の茶人、千利休の名をあげます。並外れた美的感性の持ち主でもあった利休は、自分が美しいと感じるものをだれになんと言われようとも美しいと信じぬく、まさに真の芸術家でした。また、天心によれば偉大な茶人とは常に宇宙や自然との調和を考えて生きているので、いかなる時であろうと死への旅支度が出来ているといいます。

「時の権力者であった豊臣秀吉は、茶人千利休を高く評価しており、両者の交友関係は久しいものであった。だが絶対君主との友情とは常に危険を孕んだ名誉ともいえる。当時は、裏切りが横行した時代であり、自分にとってどんな近しい者であろうと信頼できない世の中だった。そんな中、利休が秀吉の飲む茶に毒を入れ暗殺を目論んでいるという嘘の告げ口をした者が現れた。秀吉にとって、それが真実であろうとなかろうと、そのような疑いが生じた時点でただちに死罪に値するものであった。激怒した秀吉の意思を覆す全てはなく利休は命じられるがまま自害するしか無かったのである。自ら死に赴く運命の日、利休は自分の弟子を最後の茶会に招いた。客たちは悲しみに沈みながら、指定された時刻に待合に集まった。庭の路地を眺めると木々は身を震わせ、葉が擦れる音の中に、亡霊たちの囁きが聴こえてくるようだった。やがて、茶室からめずらしい香の香りが漂ってきて客たちに入室を促した。彼らは一人一人前に進み、席に着くと、まもなくして利休が部屋に入ってきた。招かれた客に茶が振舞われると、主人が最後に自分の茶を飲み干した。定められた作法通り、利休は客たちの前にさまざまな品をかけじくと共に並べた。そして一人一人に、それらを自分の形見として受け取るよう伝えると、茶碗だけを手元に残してこう言った。

「この茶碗は、不幸な定めを負わされた者によって、汚されてしまった。ゆえに二度と人が用いることがあってはならない。」

そして、利休は茶碗を両手で掴み、それを粉々に打ち割った。茶会が終わると客たちは必死に涙を堪えながら最期の別れを告げ、部屋を出て行った。ただひとり、もっとも身近にいた者にだけその場に留まり、最期を見届けるように頼むと、利休は茶会の服を脱いで畳の上に丁寧に折りたたんで、それまで隠していた純白の死装束姿を表した。そして、死の短刀の輝く刃をじっと眺めると見事な時世の句を読んだ。「よくぞ来た、永遠の剣よ、ブッダを貫き、ダルマをも貫いて、お前はお前の道を、切り開いてきた」

顔に笑みを浮かべ、利休は未知の世界へと旅立って行きました。

 

 

end