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芸術

芸術
ロミオとジュリエット
みちるとはるか
ニーチェ

あらためて思う。芸術とはなんなのかと。芸術というのは、私たちが生きる世界を表現する手段であり、人々の感情、思考、信念、文化、歴史、哲学などを表現することができるもので、芸術は、個人的な表現や社会的な表現、政治的な表現など、様々な目的でも行われる。

私たちが生きているこの世界について、そしてこの世界で生きている私たちについて。

ただそれを残して誰かに伝わったり伝わらなかったりする。芸術は無意味なものであるし、人生もそもそもは無意味なものであるのに、こんなことをするのはなぜなのか?という疑問がある。

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、どうやって死んだか– ジュリエットが仮死状態になっているのをみたロミオが、本当に死んでると思って悲しみ、自らもあとを追って死んだのだ。

そして、仮死状態から目が覚めたジュリエットもまた、ロミオが死んでいると知って、あとを追って死んでしまう。つまり、ふたりとも相手の後を追って死んでいる。

これは、人生は「あなたなしで生きるなんて無理」だということで、人生そのものよりも、愛する相手の方が大事だということ。これが人生の正体である。

人生というは生きる価値も、意味も、もちろんないのだけれど、生きていくなかで、誰かを愛したり、必死で夢を追いかけたり、なにか情熱を持ったり、仲間や家族をつくったりすることで、意味のなかった人生というものが、かけがえのない宝物になってしまうというミラクルハイパー逆転現象が起こる。ことによって、生きる価値がそこで創造される。

「はるかのいない世界なんて、救ったって意味ないじゃない」

これはみちるの言葉だ。みちるの真っ直ぐで、正直な心からの言葉なんだと思う。このふたりは、まるでロミオとジュリエットのようだね。

みちるにとっても、やっぱり、"世界 < はるか" の図式なのだろう。世界や、人生、生きるということそのものは愛するものに負けるほどのものである。

さて、ここにきてニーチェの話をするのは、やはりこの意味のない人生というものを生きているなかで、ニーチェのいうところの末人になってしまうという点。これからどう逃れたらいいのだろう。

つまり、だれしもが、ロミオとジュリエットやはるかとみちるのようにはなれるわけではない。なれる可能性はあったとしても、なれないこともある。こんなにちっぽけな生きるということを続けていくうちに、やはり厭世的な考え方に染まっていく。意味がなさすぎる人生、なにをやるにも価値など感じない。次第になににも興味が湧かなくなってくる。生きる屍のように、無味乾燥に、退屈な生を送る。無駄なことがくり返される。このつらさ、虚無が、やがて自らを自死へと誘いだす。

人生の意味のなさ、どうせ最後は死ぬだけなのに、なにになるんだこんなもの、という無に帰すような生産性のない自己嫌悪に襲われるたびに、ニーチェを思い出し、ただ超人たれよ、と己で己を鼓舞するのだが、それでもやっぱり人生には意味がない。どうせなにもかも忘れて消える。

それなのに、生きなければならない。だから、最初に戻るけれど、芸術というものを考えなければならない。ただ花が咲いたとか、空が青いとか月が綺麗ということに目を向け詩を描いたり歌ったり踊ったりするのは、本当に生きるのに必要なことなんだと。鳥の声や肌で風を感じること、美味しい水や流れる空気、音も匂いも感じることができる喜びがあるという当たり前のことに目を向けてみろやってことですたい。
私にとっては表現する、アウトプットをするということは、自分が今何を考えているのかを再確認する手段でもあり、みずからを癒す役目もある。

生きていくなかで日々、傷付いていく心を癒そうとしている。