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実存主義は壊れたが実存的に生きるしかない

人生の無意味感や空虚感を感じると、人は必ず同じ行動を取ります。

まずは、攻撃、退行、そして気晴らしとして逃避反応。そのいい例として薬物に走ることが挙げられます。世の中に登場するやたらと攻撃的になる少年たち、幼児退行する大人、そして酒や薬物などの中毒になりやすいお手軽な逃避に逃げる人たち。

はるか昔から変わらない、人間の反応として常にそこにあるものです。
 V.E.フランクル先生はこういいます。「幸せは、目指した途端、逃げていきます」と。_

私たちは、あまりに目的を追うがゆえに、その目的をなくしてしまうという傾向にあるわけです。その虚しさをなくすために、私たちは考えなければいけないことがある。

どんな幸せになりたいのか。自分の求めるものが本当はなんなのかというところ。これは、どこかで誰かが言っていたものではなく、
自分にしかわからない自分だけの幸せのことです。結婚したら幸せとか、お金持ちになったら幸せとか、成功したから幸せとかいう、薄っぺらな表面のなぞっただけの、トロフィーを欲しがるような目標思考的なものとはまったく違うものです。

「大事なのは、あなたが体験した出来事に意味を与えるのではなく、意味を見出すことです」

幸せは、追いかけ始めると、逃げはじめます。

人間は、三つのやり方で意味を見出すことができます。一つは創造(クリエイティブ)。体験、態度です。この三つによって意味を見つけることができると言います。

創造と体験は、なんとなくわかると思いますが、最後の態度とは?

V.E.フランクル先生がアウシュビッツで体験した–   極限の三年間の中で過ごした人間でも、一切世間を呪わずに、すべてを受け入れて、そこにいる自分に意味を見つけたとき、その態度こそ −  それは行動しなくてもいいの、その人がそこにいるだけで価値がある。

人間の存在、今ここに存在しているということを、外に向かってではなく、自分自身に問わなければ生きていることが無意味になる。

自分にとって安心とは何か、満足とは何か、幸せとは何か、を自分自身に向かって矢印を向けないとそれは掴めません。経済的な豊かさなんていうのも、水の流れに手を突っ込んで掴もうとしているようなもので、それは掴むことができない。水の中に手を入れて、掴むのではなく、水を感じるということ。(もうここら辺からわからなくなってきますよ)

とてつもない苦しみに遭遇したとき、その苦しみをどうにかしようと思わないでください。その苦しみに対して、あなたが、どういう態度をとったか。それだけであなたは素晴らしい成功を収めることができるんです。

時間と人間との関係は、砂時計を見れば説明できます。真ん中にくびれがあって、上から下に砂が落ちていきます。満杯だった上の杯は、次第にからっぽになっていくのが見えますね。そして上がすっからかんになって下がいっぱいになった時に、その人はいなくなります。

そう考えると不気味ですね、落語の死神では人間の寿命をろうそくで表していましたが、砂時計は、過ぎた時間をも、そのまんま見せてくる感じがね。

だけどフランクルはいいます。「なにを虚しがっているんだ」と。「目指すべき未来、上から落ちてくる砂というのは、過去に落ちて、過去のなかにこそおまえの未来があるのではないか。」…奇妙なパラドックス
ということは、私たちはいつも未来の中にある過去を目指して生きているわけです。

人間というのは迷った時に
自ら問うて自ら答える生き物なんだと。

そう問うたところで誰が答えるのか、あなたしかいない。ここまで来れたんだからいいじゃない。あんなことも、こんなこともあったけれど、こうして図太く生きてるじゃないって、鏡を見れば乗り越えた自分(証拠)がそこに写っているわけですからねって。そして、人生に聞くな、答えなさいって

神様どうしてですか?ああですか、こうですか?聞くんじゃない、おまえは答える側なんだよ。という厳しくも優しいお言葉。

だけど残念ながら、私はなにかの使命や、正義感みたいなものに心が燃えるタイプではないのです。だから、自分がこうしなければ!みたいなことでは立ち起こるエネルギーは湧いてこない。もちろん、じぶんのなかに、無限にわき起こるがあることは知っています。でも見つけられそうで、まだ完全には見つけられておらず、だからこそ、それは自分で探していかなければと思うのです。だから、フランクルのいうことはわかります。そして同意です。

つまり、プルーストの紅茶に浸したマドレーヌなわけです。ホメロスオデュッセイアで書いたような旅、人間が経験しうるすべての冒険をし多くの神話的な存在や支障を乗り越え故郷に戻るというのを、マドレーヌ一つでやってのけたプルースト。主人公にとっては、紅茶に浸したマドレーヌであったが、香りが記憶を呼び覚ますこともあれば、曲や音、光、痛み、味、物が記憶を呼び覚ますこともあるだろう。自分の中に積まれたクオリア、体験質の蓄積が自分の財産。

真珠の耳飾りのあの真珠を見れば、フェルメールを想起するのと同時にレールモントフの詩を思い出し、その頃に戻ってしまう。意識はどこでもドアのように時間も空間も瞬時に移動するタイムマシーンになる。人間とは空想的で、現実的で、悲劇的で喜劇的で、つまり矛盾した、あいまいな生き物であると思うからこそ、自分のことを分かっているようで、分かってなどいない、流されやすく、かといって人に決めつけられるのは嫌いで、わがままで怠惰で、なのに好きなことなら頑張れる。そう思っているのに、疲れていたりストレスが溜まってくると愛した人でも捨て、現実を投げ出したくなる。誠実や真意なんていうのも、誓っているその時は、本当にそう思っていたのでしょうが、時が経つに連れて物事は変化し、風化する。熱いものは冷めていく。それなのに浅いものが深くなる。自分も矛盾しているが、この世の法則も矛盾しうるものがたくさんある。だから混乱するのでしょう。わかりますか、私が答えが出せないわけを。答えがありそうで、やっぱりないのではないかと同時に思ってしまうわけを。V.E.フランクス先生。