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虚栄心

 
 

メンタルに一番悪いとされているSNSのインスタ。ここまで大衆化されたアプリが人間の精神にどう作用するのか、はたまた、人にどう影響し、それによってどう行動も変わるのか。影響を受け行動が変わるということは、人生そのものが変わるということでもあり、けっこう大きなことだ。だから個人的に気になるし、気になってしまった以上はここを掘らずにはいられない。

 
 
 ジラールによれば、人間にとって普遍的な模倣的欲望は欲望の対象への媒介者としてのモデルが主体にとって憧れにとどまる外的媒介の段階から、モデルとの競合関係にはいる内的媒介の段階に至って、深刻なテーマとなる。
 
 
 11世紀以来貴族は社会的階層秩序のなかで地位が低下し続け、平民は上昇し続けてきた。この動きは世界的でかつ持続的であり人間の意思では抑えられない摂理であるということを覚えておきたい。 
 
 
 内的媒介が生む、熾烈な妬みが社会全体を動かす原動力にまでなったのはフランス革命後の19世紀。この世紀の特徴は、政治的次元では国民主権、社会的には生活様式の画一化と社会的階層の流動化、精神的次元では個人主義をあげることができる。
 
 (その時代のことを知るにはまず、年代的に前後のことを調べる。それから政治、社会、個人、文化について。時の権力者は誰か、社会情勢はどうか、流行っていたものは?着ている服は?食べていたものや読んでいたもの、聴いていた音楽。全てをさまざまな角度から調べていく作業。それでようやくどんな時代観なのか少しだけ掴める。) 
 
 
 
 バルザックは『ベアトリクス』のなかで「万人の平等を宣言することで、人々は「羨望の権利宣言」を発布したのである。われわれは今日、精神や産業や政治という一見すると平和な領域に移された、革命の乱痴気騒ぎに耽っているのだ」と述べていた。 もっとも、19世紀前半では、貴族の出自や『赤と黒』のジュリアン・ソレルのような並外れた才能、あるいは財力がなければ、こうした羨望を実現することは難しかった。しかしフローベールの『ボヴァリー夫人』では、ノルマンディーの寒村に住む農民の娘が社交界の貴婦人と比べて、平等ではないことに耐えられず、旧約聖書のヨブのように、「神の不公平」を呪詛にするに至る。 民主主義的羨望が社会のあらゆる階層に浸透したことが示されている。興味深い点は、エマと一見対照的な薬剤師オメもまたパリ風俗に憧れ、医者の権威と名声への羨望を常に抱いていることである。そこで彼は権力に接近をはかり、選挙等々で知事のために骨を折るのだが報われず、「国王に応分の処遇」を嘆願し(i le suppliait de lui faire justice)、小説の結末で「世論の支持」を背景に念願の名誉動章を受動することで物語世界での勝者となる。こうした平等化の進抵がもたらす望の時代に抗して、ジラールイエス・キリストの模校によって悪の連鎖を断ち切り、隣人を放すキリスト教的愛の展望を提示している。
 
 
 
バルザックも『村の司祭』のなかで、平等の観念に基づいた博愛主義 philanthropie は「崇高な誤り」であり、宗教は「贖有 indulgence という尽きることを知らない宝庫」を開くことで、現実に存在する様々な不平等にもかかわらず、「悔悟」という感情の共有によって「すべての人は平等になる」と司祭の口を借りて語っている。また「現代史の裏面』では「私たちは偉大で崇高な聖パウロが定義したような慈愛chariteを実践するのです。慈愛だけがパリの傷口に包帯をすることができるからです」という信念を持つラ・シャントリー夫人が組織する「慰めの兄会」は、『キリストに倣いて』を福音書に準じる書物として位置づけて、慈愛を人知れず実践している。 
 
 ところが、「ボヴァリー夫人』では、結末で亡きエマの愛人であったロドルフと偶然再会したシャルルは、ロドルフを「もはや!恨んではいません」と一方的に激すものの、彼の言葉はそもそも赦しをこうてすらいないロドルフには届かず、ロドルフの目には、シャルルは滑稽なお人良しにしか映らない。またモーパッサンの『脂肪の塊』は、そうした平等化の進む状況の中からスケープゴートが生み出されていく典型的なプロセスを鮮やかに示している。
 
様々な社会階層の人間(ヒロインの婚・、工場経営者の金持ち、伯爵夫妻、修道女、民主党員等)が同乗している乗合馬車がすでに民主主義的空間であり、全体の危機の到来と同類ともいうべき乗客同士の競合、そしてスケープゴートプロシア軍の士官と一夜を共にせよ、という「全員一致」の要求)へ至る物語の展開は、ジラールの模倣論をなぞっているかのようでもある。 模倣的欲望に関して、19世紀にはジラールが言及していない重要な著書が刊行されていることを付け加えておきたい。
 
 
それは模倣的欲望が人間の社会そのものを作り上げているというタルドの『模倣の法則」(1890)である。模倣は、模倣対象に対する信や絆を暗黙裡に前提としている。ジラールは、模放的欲望に原罪を見て、その否定的な側面にもっぱら焦点を当てているが、タルドによれば、模倣は社会的集団を構成する社会心理学的核心であり、慣習、言語、宗教、流行現象、さらに群衆や犯罪の問題などにまで深く関わるものである。
 
 
 
19世紀は、模倣的欲望が、肯定的な意味であれ否定的な意味であれ、いたるところで、個人や所属集団、階層を超えて社会全体を動かす力となった時代と言えよう。 マーガレット・ミッチェルの大作『風と共に去りぬ』は、南北戦争が始まった1861年から、戦争後の再建時代が終わろうとする1873年までの激動の時代を背景とした歴史小説である。舞台は旧南部の心臓部と言われたアトランタとその周辺の農園におかれている。
 
 
その農園の一つに育ったスカーレット・オハラが、南北戦争の勃発、北軍の侵入、南軍の敗北、戦後の復興を生き抜くという設定であるところから、この小説は南北戦争を南部側から見たものとしてユニークな地位を占めているとされている。しかし、この小説の歴史小説としての価値もさることながら、女主人公スカーレットをめぐる人間関係の中の「三角形の欲望」的要素に注目することもまた、この小説の重層性を明らかにすることになるだろう。
 
さらに言えば、ジラールはこのタイプの欲望を持つ主体として、様々な文学作品から例を指摘しているが、女性としてはエンマ・ボヴァリーだけを指摘しているので、この点において、スカーレットに注目することは新たな試みと言えるかもしれない。
 
 
 作者は冒頭から、女主人公スカーレットが、自律的な欲望を持たず(あるいはそれに気づかず)、他者の欲望に影響されやすい、ある意味幼い精神の持ち主であることを提示する。冒頭からの展開を少し見ていこう。 スカーレットは、タラの大農園主オハラ家の長女で、個性的な美貌と激しい気性の持ち主である。小説は1861年4月のある輝かしい午後、タラ農園のポーチの涼しい日陰に、タールトン家の双子の兄弟スチュアートとブレントとともに腰を下ろしておしゃべりを楽しんでいるところから始まる。
 
 
 

 

 
 
 
彼女は16才、逞しい体をした19才の双子たちは、大学から放校されてきたばかりだ。双子の話が、近々始まるかもしれない戦争のことから、アシュレ・ウィルクスとメラニー・ハミルトンの婚約発表に及ぶと、スカーレットはショックを受ける。彼女はアシュレが好きだからだ。 この冒頭部分で注目したい情報がやつある。1つはスカーレットが黙りこくってしまったのを不思談に思いながら帰る道々、双子が次のように話すことである。
 
 「スカーレットだって、アシュレがメラニーといつかは結婚するということくらい知ってなければならないはずだと思うよ。おれたちだって何年も前から知ってたじゃないか。ウィルクス家とハミルトン家は、むかしから、いとこどうしで縁組みする間柄なんだ。だからハニーウィルクスがメラニーの兄のチャールズと結婚することと同様、アシュレたちのことも、だれだって知っているはずだ」 
 
 
 この会話から、アシュレがすでに「売約済み」であり、他人のものだと約束されていることをスカーレットが知っていたことがうかがえる。もう1つの情報は、スカーレットの性格についてである。作者の言によれば、 スカーレットは、生まれつき、どんな男にしろ、自分以外の女に心をよせるのを黙って見過ごすことができなかった。だからインディア・ウィルクスとスチュアートが親しそうに そのあつまりに出席しているのを見ると、すぐに奪的な本性をたかぶらせた。そしてスチュアートだけでは満足せず、ブレントの心までも支配しようとし、ついに完全にふたりとも征服してしまったのだ。 
 
 
 このくだりから、スカーレットの注目が若者たち本人ではなく、同性たちに向けられていることがわかる。つまり、他の女の欲望の対象だという理由で、彼女はその対象を自分のものにしようとする。双子の兄弟スチュアートとブレントに関しても興味深い情報が提供される。 去年の夏まで、スチュアートはウィルクス家の娘インディアに求婚していた。両家の家族たちはもちろん、この郡全体が、この結婚には大賛成だった、おちついたがまんづよいインディア・ウィルクスの人柄が、彼におちつきをあたえるだろうと郡の人たちは考えたからだ。ともかく人々は、それを熱心に希望した。
 
 
 
そしてブレントさえ不服でなかったら、スチュアートは、おそらく結婚してしまっただろう。ブレントも彼女がきらいではなかったが、器量も悪いし、平凡な女だと思っていた。いつまでも手を組んでやって行きたいスチュアートの妻には、自分までほれこむような相手が望ましかった。これは、この双子兄弟にとって、はじめての意見の相違だった。ブレントは、スチュアートが、自分のすこしも興味のない女に心をひかれているのが腹立たしかった。 
 
 
 そこへスカーレットが登場して2人の心を奪ってしまったのだった。 それ以後、彼らは、ふたりとも彼女を愛するようになった。インディア・ウィルクスのことも、ブレントがほのかに恋ごころを感じていたラヴジョイのレティ・マンローのことも、ふたりの心から遠くかなたに押しやられてしまった。スカーレットが、彼らのうちのひとりに愛を許したとき、愛をうしなったほうの他のひとりは、はたしてどうするのか。兄弟は、そこまでは考えなかった。そうなったら、そうなったときのことだと思っていた。ふたりのあいだには嫉妬がなかったから、現在は、ふたりで仲よくひとりの女を愛するという事実に、ふたりともじゅうぶん満足していた。 
 
 
 この双子たちの恋愛感情に関する情報も、実は小説の冒頭から「他者の欲望を自分の欲望とする」構図を示唆しているかもしれない。双子たちは欲望の対象である女たちとの絆よりもお互いの絆の方が強いので、2人共が愛せる女を捜さざるを得ない。
 
 
そこへ彼女なりの理由で入り込んできたのがスカーレットである。表面的には双子は2人で1人の女を奪い合っているように見えるが、彼らの本当の関心は互いへの関心である。お互いがお互いの媒介となり、お互いの恋愛の対象を愛しているのだ。 
 
 
 スカーレットは、鼻っ柱は強いが自己評価の低い人間であって、自分の本当の欲望はまだ見出せず、迷走状態にあると示しているのかもしれない。
 
他人が少しでも欲していると思えた対象に彼女は向かって行く。なぜこのような性格であるのかについては、作者は明言していないが、母を崇敬しながら母のようになれないと自覚している自信のなさから来るものかもしれない。 本当のものを得られないため、偽の賞品で我慢するしかない状態なのだといえるかもしれない。 (割愛)そしてメラニーの死とともに、その精神が滅び去ったことを作者は語る。
 
 
 
一つの文化が終焉したときこそ、人はその値打ちを知り、自分の真の欲望を知るのだろう。 彼女は、愛するふたりの男を、ふたりながら、ついに理解しなかった。そして、そのために、ふたりともうしなったのだ。もしアシュレを理解することができたら、彼を愛するようなことにはならなかっただろうし、もしレットを理解することができたら、彼をうしなうことはなかっただろう。 そのことが、おぼろげながらわかった。いったい自分は、誰にしろ、人を本当に理解したことがあったのだろうかと思って、彼女はさびしくなった。スカーレットは、自分をも他人をも理解しない人間である。
 
 
けれども、自分の理解しない価値を所有しているらしい人間(アシュレ)に惹かれる。そして、彼を理解できなければできないほど、手に入れたいと願う。 ジラールは言う。 虚栄心を持った男がある対象を欲望するためには、その対象物が、彼に影響力をもつ第三者によってすでに欲望されているということを、その男に知らせるだけで十分である。 スカーレットの虚栄心について、作者は枚挙にいとまのないほどなんども強調している。
 
 
 
ジラールの理論をそのまま応用できないにせよ、どこか似た図式がここに現れているのではないだろうか? 彼女はアシュレと、彼女が理解不可能な「教養ある南部」(やメラニー)の相思相愛状態のなかに割って入ることができず、欲望を募らせているのではないだろうか。「ほんとうの奥深いもの…....普通の恋愛とは違う性質の愛…...神聖な…...アシュレの内部にあって彼女の理解をこばむもの」と作者は小説の冒頭で紹介している。 
 
 
 
 自分の真の欲望を知るのは容易ではない。それを知らずに死んでく人だって多いだろう。どれだけ自分の心をのぞこうと一向に見えてこない根気のいる作業だ。でもやらなければいつまでも空虚。虚栄心に振り回される単なる奴隷のまま。私は自分が主人なので、やるしかない。