William brake
ハンニバルやドラマMENTALISTになどにも度々出てくるウィリアム・ブレイク。
ドラマでちょくちょく出てくる『虎』
虎よ虎
赤々と燃える
暗い夜の森で
どんな不死身の手や目が
その恐ろしき造形を作り得たのか
どこの海や空に
その目は燃えたのか
神は羊を、そして、虎を作った
闇のない光はない
死のない生も。
ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757-1827)はロンドンの下町で銅版画師とし て貧しい職人生活をしていた。挿絵版画の仕事の傍ら、自らの思想を明らかにするため、 詩と絵の両方を同一画面に配置する方法「彩飾印刷(Illuminated Printing)」を開発し、約 20もの作品を残している。
彼が書くのは隠された無限なるもの、近代的な合理主義によって隠された真理で必ず犯人は変身願望を持っている。
ミルトンの『失楽園』では救世主とされるのは欲望を抑制する理性であり、ヨブ記において神を誘惑するサタンと同じ。しかし、ブレイクが考える救世主は一度堕落した後、奈落の底から盗んできたもので新たな天国を造ったと考える。
欲望にはエネルギーがくっ付いてくるので、理性を働かさるとエネルギーの方がなくなっていく。そうしてエネルギーを無くした欲望を『欲望の影』と表している。
Without Contraries is no progression. Attraction and repulsion, reason and energy, love and hate, are necessary to human existence. From these contraries spring what the religious call Good & Evil. Good is the passive that obeys Reason. Evil is the active springing from Energy. Good is Heaven. Evil is Hell. (E 34)
Foster Damon が『ブレイク辞典』で繰り返し説明しているように、ブレイクにとって、 「対立するもの同士は等しく真実であり、互いにとって不可欠」なのである。こうした対立概念は、後期の作品群の中で「否定」の概念を伴って再び示されるが、ブレイクは、一方 が切り捨てられる否定ではなく、あくまで二者の存在が保たれる対立を重視する姿勢を貫いていることが分かる。
『天国と地獄の結婚』で対立概念を示した次のプレート「悪魔の声(The voice of the Devil)」では、「全ての聖書と聖典」が前提とする霊肉二元論や、肉体とエネルギーの否定 といった考えは誤謬であるとして、次の三点こそ真実であると示す。 1. Man has no Body distinct from his Soul… Energy is the only life and is from the Body… 3. Energy is Eternal Delight (E 34) ブレイクが対立概念を重視した理由の一つに、ここで見られるようなエネルギー賛美の姿勢が挙げられるだろう。
「永遠の歓び」であるエネルギーは、物事の進歩を促す対立から生 まれる一つの表出である。そしてそれは、人間が本来持っている生への欲望や活力とも言える。しかし、既成宗教は理性の名の下に、生命の証とも言えるエネルギーを悪とし、そ れを否定しようとする。そうした宗教が規定し、人々が信じている善悪の「善」は「偽善」 ではないかとブレイクは感じ取っているのだ。
そのため、ブレイクは抑圧的な理性に 押さえつけられた善よりも、エネルギー溢れる悪を讃えることで、一般的な倫理的価値観を逆転させようとしていたと考えられる。
ブレイクの詩にはContrary対立、エネルギー論、宗教観からくる詩的表現がみられるのが特徴でもある。
対立
対立するもの同士は等しく真実であり互いにとって不可欠。そして永遠の歓びであるエネルギーは物事の進歩を促す。
理性が勢力を増すと欲望はそのエネルギーを失いただの欲望の影になってしまう、と。ブレイクは衝動のままの行為が美徳とするエネルギーの人としてのキリストを描いており、ブレイクの対立概念に合わせるのならキリストは悪の側である。
ブレイクが抱いていたフランス革命への期待と落胆の表れか、これまでの進歩を促す対立や革命的なエネルギー賛美には時代背景がある。しかし、結局革命がもたらしたのは恐怖政治やギロチンであり、そうした革命への落胆からエネルギーを推し進めることへの修正が行われた。
さらに、天国と地獄を上下として描くのではなく、左右に併置しており、対立するものに優劣はつけていない。ブレイクが規定する善悪には優劣がない。善も悪も人間存在にとって互いに必要なものであり、2つの力が混ざり合うことでエネルギーが生まれ、進歩が促される。宗教のように善だけをよしとするのは偽善であり、また開くだけに偏るとミルトンのサタンとユリゼンのように自己中心的な抑圧者となる。
そのため、ミルトンでは自己と自己の中の他人の対立となった。
象徴人物
内省−自分を見るという行為をした時すでに、見る自分と見られる自分の二つに分かれている。これをやっていくと人間の中の論証する力、誤った肉体、一つの外被、そして自我というものがある。
ブレイクの詩には一人の人格に対して流出・エマネーションと呼ばれる女性的分身と亡霊・スペクターと呼ばれるもう一人の自分、さらに影や肉体が別々の動きをしていたりエマネーションのスペクターや、自分と分身との子どもな どが現れたりもする。この作品でも、主人公のミルトン自身が分裂や統合を繰り返し、複雑に話が進んで行く。
The Negation must be destroyd to redeem the Contraries The Negation is the Spectre; the Reasoning Power in Man This is a false Body: an Incrustation over my Immortal Spirit; a Selfhood, which must be put off & annihilated alway (E142)
ここで言う「破壊」とは、「自己滅却(self-annihilation)」のことを指している。その目的は、 「自己吟味によって自分の精神の顔を洗い清めるため(E 142)」である。顔は五つの感覚 器官を持つ場所でもあることから、この言葉は、『天国と地獄の結婚』での有名な詩句を思 い起こさせる。
詩人にとって、無限を見る力でもある想像力は絶対的なものである。特にブレイクは想像力を重要視しており、「想像力は神(イエス)自身(E 273)」とまで言っている。誤った自我によって知覚を鈍らされていると、ブレイクが目指す永遠界への回復は得られない。『ミルトン』でのサタンは主人公ミルトンのスペクターとして描かれる。ミルトンは自らその事を次のように自覚する。
… Urizen stoop’d down And took up water from the river Jordan: pouring on To Miltons brain the icy fluid from his broad cold palm. But Milton took of the red clay of Succoth … Creating new flesh on the Demon cold, and building him, As with new clay a Human form… (E 112)
このようにミルトンとユリゼンの戦いは、「敵対者に対し、一方に生を、他方に死を与える (E 113)」行為であり、「自己滅却」が創造/芸術行為の一つとして描かれている。
自分の中に悪しきものであるサタン的側面に気がついたミルトンは、そうしたスペクター 的自我を消滅させるために地上へと降りてくるが、彼の下降は下界へと降りることである と同時に、自己の中への下降でもある。
しかし、『ミルトン』におけるサタンは『天国と地獄の結婚』の悪魔のようにシンプルで はない。サタンは「不透明(opake [opaque])」であり変化可能な「状態(state)」でもある。
また、それ自体に対立物を内包しているかのような、二面性を持っている。それはまず、 サタンの兄弟パラマブロン(Palamabron)によって明らかにされる。
Seeming a brother, being tyrant, even thinking himself a brother While he is murdering the just. (E 100)
サタン自身が良かれと思って見せた兄弟愛は、相手にとっては暴君の姿であった。このサ タンの姿は、独善的なモラルを強いる「ユリゼン(Urizen)」としての本性を現し、抑圧的 な唯一神として君臨するに至る。このユリゼン的サタンは、途中、アルノン川の岸辺でミルトンによって「自己滅却」される が、その方法が実に興味深い。サタンは冷たい川の水をミルトンの脳に注ぐという、洗礼 を与えるかのような行為をする。それに対し、ミルトンはスコテの赤い土でユリゼンに新たな肉体を形作っている。
こうしてミルトンによって新たな「輝く」肉体を与えられたユリゼンの中では「真の人間 が力と威厳に満ちて歩き出す(E 114)」。この「暗くされていた」悪魔を本来の「輝く」悪魔へと作りかえる行為は、Fred Parker が指摘するように、悪魔を描写するという危険な タスクを担う芸術家にとっては、素晴らしい着想点だ。
・創造性でも人は淘汰されつつあるのか?
AIの方が創造でも勝ってしまうって、AIはこれまでコンテストで優勝してきた作品の傾向をデータ分析して突いてきてるからかな?人が選んだものが必ずしも良いものではないから、(それこそブレイクなんか理解出来ないでしょう)本当にいいものが益々埋もれちゃう気がする。
人気なものというのは万人が理解できるレベルのものと表層的なものが多い。
本質的なもの、本当のお宝は万人に見つかるのなんて100年後とかなのね。だから1000年でも2000年でも遡って自分で宝を見つける。人がどう評価するかはいっさいあてにはならない。自分自身の評価基準で探し、更新していく。
「視る_視られる」
ラカンの言う「鏡像段階」とは生後6ヶ月以降の幼児が鏡の中に(つまり自己の外部にゲシュタルトとして)自己の姿を認め、その像を通して自己を認識してゆくプロセスである。
いまだに肉体機能的・精神活動的にも一個の人間として統合的存在となっていない幼児は、鏡像の中にはじめて自己の統一的イメージを獲得する。この意味で幼児(人間)にとって鏡は自己認知のために必須のものなのであるが、同時にこの段階の幼児は母親と最も密接な関係を持っている時期であり、したがって幼児は母の中に、もっと具体的に言えば母の目という鏡の中に、自己の理想的な像(イマーゴ)を捉えることになる。
トマスハリス原作のレッド・ドラゴンの主人公ダラハイドの第一の不幸は口蓋裂を持って生まれたことである。その醜さから、生まれてすぐ母親に捨てられてしまう。だからダラハイドは醜い自分の姿を鏡の中に正視することができず、母の眼の中にそれを視ることも叶わなかった。映画の中では、ダラハイドは自宅の鏡も全て割っている。
レクター博士によれば、醜さを自覚したダラハイドは、その姿を鏡の中に認めることができない。彼にとって鏡は、理想的自己イメージを映すものではなく、むしろ母を失う原因を作った自己の醜さを写し出すものでしかなかったのだ。叩き割られた鏡の意味がここにある。
しかしながら、母子が展開する双数的関係は、けっして安定的で幸福な関係に終わりはしないということも挙げておこう。
不完全な肉塊に過ぎない自己と、すでに全体性を獲得している鏡像(外化された自己)とのズレ、それ以上に互いの目の中にそれぞれの理想像を見出そうとする母子の闘いは激しくなる。
ダラハイドは彼の理想を先取したかのような夫婦であるジャコビ家を襲う。これが他者を襲うように見えて、実は「自我の理想」に対する「自罰」であったように、ダラハイドの殺人もまた自罰的な色彩を帯びている。この点を浅田彰はこういった。
「主体が他者を通じて自己確認を目指すとき、他者もその主体を通じて自己確認を目指している。どちらも相手を自己認識の手段にしようとして、言い換えれば、自らを主_相手を奴、と化そうとしてあくなき闘争を繰り広げ、そして、勝ったと思った瞬間、自らの全体性が相手に騙取されていることを見出すのである」
つまり母と子は、「主_奴」のいちをめぐって互いに理想的イマーゴを先取しようとして激しく争うあうわけだが、実は、ダラハイドは母の子捨てのためにすでにこの闘いに敗れた存在であった。
「視る_視られる」という関係は、単に相手の像を捉えているということではなく、相互の像を捉えて動く相互の情動の交感でもあるわけだ。
ところが、その相手の眼が鏡になるということは、この情動の交感が一方的に遮断されてしまうことを意味する。
確かに私の像は相手の眼に映っはいる。しかし、そこに映し出された私の像は、相手の認知を通過しない私の像であり、そこには相手の情動がいささかも介在しない。
相手の眼の中に映し出された私の像は、ただむなしく私が覗き込んだことしか意味しない私の像なのだ。
言い換えればそれは、私を見つめるような像でしかない。自己イメージは他者を媒介とせずに、自己の中で完結する。
だから、ここから可能な自己像は、自己の欲望にしたがって果てしなく増殖する自己イメージなのである。
たとえば、クーリーの「鏡に映った自己」なども「他者の目に写った私」というときの「映った」とは、相手の情動や評価の存在を前提にしていた。だからこそ、相手の情動や評価を私が認知することによって、私は他者を通して「私(の言動の意義やパーソナリティなど)を知る」ことが可能になるわけだ。
同時にこのことは、私であることの意味づけの中に他者の存在が介入してくることを意味している。しかし、もし相手の眼がこの惨殺死体のように鏡だとしたら、私はその時、いかにして私を認知することができるのか。いや、じつはここに、自我の現代的特徴が現れているとさえ思えてくる。
現代社会に生きている私たちの自己認識は、まさに鏡のような他者の眼によって(突き詰めれば、私の眼によって)形成された私、でしかないのかもしれない。私を繋ぎ止める他者、という契機を失った私、そして、果てしなく自己増殖する私のイメージ。
そしてこの時、狂気が忍びこむ。
ダラハイドは現実の母を欠落していたゆえに、母との視線の交流を想像できないまま、つまり母の視線の内容を想定できないままに、ただ母の眼に自己の像を結ぶことだけに囚われている。しかし、この囚われによってかえって彼は、他者(母)の自由で身勝手な情動などが介入する余地のない視線を手に入れたのだ。いまや母は主の資格を争い合うものではない。こうしてダラハイドは自己増殖する果てしない欲動(理想的イマーゴへの渇望)を挿入された鏡の眼の中に視ることとなった。
しかし、総数的関係においては、欲動はけっして満足させられない。はてしない欲動の昇進だけがそこにはある。
その上、ダラハイドの場合は、もともと欠落を埋めるための偽装された関係だったのだから、その想像界はますます狂気へと転換してゆく。
優雅してて草 |
『羊たちの沈黙』レクター博士が言っていた。「サナギの持つ重要な意味は変身だ。ビリーは自分も変身したいと思っている。(連続する犯行を)彼は一連の脱皮だと考えている。シリアルキラーたちは、「美しいイマーゴ」を求めて「変身」と「脱皮」を繰り返すというわけだ。「他者の眼」の前で彼らは、自分が今や「美しいイマーゴ」であること、もはや、きたならしい芋虫ではないことを披露しなければならない。彼らは、その過去を全く逆転した仕方で生き返そうとする。」
(この下手くそなフルート演奏に顔をしかめるとこが好きすぎる😹)
子供の頃の体験に合った役割を逆転させようとする。そうすることで殺人者は、魔法のように自分の過去の受難を帳消しにし、自分の力とアイデンティティを回復できるのだ。そして、芋虫のような汚らしい「過去の受難」から「美しいイマーゴ」への「変身」の重要な承認になるのが、「観客」すなわち、「他者の眼である」。この点にシリアルキラーたちのもう一つの悲劇がある。というのは、彼らの「生き返し」がこの抽象化された「他者」の判断に委ねられているからである。だからこそ彼らは、この「他者」を圧倒的に畏怖させる犯罪を売り返さなければならない。
・トラウマ
「醜男」というトラウマを抱えているために、自己の像に敏感になったダラハイドは、それだけ他者が抱く鏡像、すなわち「騙取されること」に我慢がならない。それは「私」に執着する現代人、言い換えれば、「疎外されること」に敏感に反応する現代人に共通する、神経症的病いなのかもしれない。
しかし、フロイトとユングのズレにもみられるように、トラウマが過去に存在する「事実」なのか、それとも現在を生きようとする人間がその不幸を正当化するために「発明したもの」であるのかは不明である。
にもかかわらず、トラウマに執着するのは現在の自己をいかにして捉えるかという、自己に対する過剰なとらわれがあるからであろう。そのとらわれが、「自己の疎外」や「騙取される自己」への過剰な反応をうむ。さらには、無限ループのように拡大する狂気と「力」への憧れを生む。
だとすれば、このトラウマの問題に触れないわけにはいかないのだが、ここではふたつの点だけについて指摘しておきたい。それはトラウマを生み出すのは単に他者だけなのかという問題と、そもそも「疎外」や「騙取」なくして主体は主体となりうるのかという問題である。自己にとらわれるダラハイドは、そのとらわれるという事実によってもまた自己から遠ざかってしまったのだった。つまり、「醜男」の問題は、単に「醜男」としての自己を引き受けてしまい、そのことにダラハイドは苦悩したわけだ。
とすると、これまでの自_他の関係の中で論じてきた「私」と「自己」の問題にはもう一つ別の次元を設定する必要が出てくる。
それは、言い換えれば「自己」は「私」によってもまた、形成されるということ。で、自_自の関係の次元の必要である。主体は、主体の内部で他ならぬ主体をめぐってみずからと争い合う。主体の中でも、主と奴の関係の闘いが展開されるわけだ。
つまり自_他関係における「私」と「自己」の相克の中で緩和され、修正され、あるいは、隠蔽され、乗り越えられるものであり、その意味でも人間にとって鏡像段階の意義は大きい。
の、だが、現代社会人は、この自_他関係というモメントをますます失いかけているのかもしれない。
このモメントが希薄化するとき、「主」と「奴」をめぐる闘いは主体の内部で果てしなく繰り広げられるだろう。
そして二つ目はこうだ。
「自己」とはそもそも「疎外され」「騙取され」てはじめて形成されるものではなかったか。その「疎外」と「騙取」を引き受けざるを得ないところに、人間の悲劇と、またダイナミズムもある。
ダラハイドの悲劇を目撃しながら思うことは、この主体とは分裂した自己内部での対抗と緊張の関係そのものであるという認識の欠如である。だが、それはダラハイドだけの欠落だろうか。トラウマという言葉に敏感に反応し、それを好んで引き受けようとする現代人もまた、この欠落を生きているのかもしれない。狂気と法悦のあいだで揺れ動くダラハイドの悲劇は、現代を生きる我々の姿と重なっている。